4. 「勉強のこと」
先生は、国語の先生で、授業の際には必ずプリントを配っていました。角ばったような字でわかりやすく独特の字は大きく、僕たちの答えを書くところはかなりのスペースをさいていました。他の先生はプリントなんか配っていないのに先生は必ず、毎回配っていました。だから、国語の成績も少しはよかったように思います。
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5. 「生徒のたたき方」
ある日のこと、「僕は、君たちをたたかなければならない」と、いうのだ。なんの理由で叩かれたのかは記憶にはないが、説明を始めるのである・・・。ここからがたいへんだったのです。「人間は感情的になって叩くとケガをさせるから笑いながら叩く・・・」と、言って全員を立たせて一人ひとりを平手で叩き始めたではないか。とうとう僕の番がきた〜っ。「バシッ!」と、軽く叩かれたが痛さの記憶はない。ところが、細身のS君が吹っ飛んだのです。これにはビックリしましたよ〜。しかし、女子は、強いなぁ〜と思いました。まぁともかく、ニヤニヤしながら一人ひとりを叩いていくのだからたいしたものだと嫌味抜きに今も思うことがあります。
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6. 「先生は共産党???」
今でもそうなんですが、先生たちの組合のひとつに「日教組」があります。この日教組なるものがいったいなんなのかは大人になってからわかったことなんですが、先生たちの組合運動らしきものが生徒の僕たちにはよくわからない事のひとつでもありました。生徒間でもこの話が幾度となくでてくるのです。さすがの先生も我々がそういった話をしているのを察知したのか、ある日のこと、「僕は社会党だっ!!」というのです。その瞬間、全員が「社会党」という聞いたことがない単語にビックリしている雰囲気が教室全体に一瞬で広がっていったのです。時々、給料値上げとかいってなんだか記憶にはないのですがそんな話を聴いたことがあります。しかし、まぁ〜「社会党」には今でも唖然としました。生徒の頭の中には「共産党」という単語しかないのですから。でも、僕たちは、いったいだれから、どっからその共産党という単語と先生を結び付けたのか今でもわからない。
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7. 「エロ本は1人で見ろ」
ある日のこと、なんでそうなったのかはいまだに記憶がないのだが、先生の家に行くことになった。学校から、車が通るとホコリが高く舞い上がる朝仁の旧道を確か30分足らずで歩き、先生の家に着きました。ビックリしたのは噂どおり、狭い家の中は本だらけでした。それも今となっては珍しいソーメン箱に入った単行本だけでも何千?冊???あるのだろうか。その横には、予想に反してベッドがあったのです。子どもながらに先生には似合わないと思った。そのベッドを見た次の瞬間、枕の後ろにはなんと木刀が置いてあったので、「先生・・・なんで・・・」と、聞くと「寝込みを襲われるから・・・」いったいだれが・・・襲うのだ・・・。たぶん、先生なりのジョークなのかもしれない。あっそうそう、エロ本の事ですが、道中、週刊誌が道端に落ちていまして、それを拾って見たところ先生がその本を見た時に、玉玉、ヌード写真のところだったので「エロ本は1人で見ろ」と、言われたのです。さてさて、それはともかく、夕食はカレーが出てきました。そのカレーをスプーンでかき混ぜながら食べていると「ソースはいるか・・・」と、聞かれたので、「いいえ」と、答えると、「そうだったら大正時代のカレーの食べ方なんだけど」「えっ大正時代の食べ方ってソースをかけてからかき混ぜながら食べるのかと、わけもわからず感心した物だった???」
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8. 「僕は、喧嘩が弱かったんだ・・・」
「僕は喧嘩がよわかったんだ」。先生は、空手3段ということらしく打たれると「痛い!!」ということが常に頭の中をよぎるのである。その先生がいうには、「僕は、いじめられたりしたから、空手を習い始めたんだ」。先生の小指は、曲がっていたのです。これは、腕立てふせの時に、小指でやって指を折ったのだ・・・」というふうな話をしていました。この後の話は記憶にない。残念。
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9. 「てめぇ〜ら、今度の試験で・・・・」
ある日の、ホームルームの時間に先生は、教室に入るなりいきなりベルトを2秒で腰から抜いて(これは、神業)机に一発叩き付け「てめぇ〜ら、今度の試験で最下位〔9クラス〕だったら一人ひとりひっぱたいてやるからなぁ〜」それもそのはずで、テストの時には我がクラスは、9クラス中9位ですから先生としても何とかしようと考えたのではないでしょうか。もちろん、全員の脳裏には「空手3段」がよぎっていたのは確かだったと思います。ご多分に漏れず私も勉強をしました。そのかいあって、確か、6位か3位になりました。ちなみに、運動会の時の順位は確か3位か1位だったと記憶しています。ところが、問題はここから始まったのです。年末の試験では先生はなにも言いませんでした。その結果、また、最下位に後戻りをしてしまいました。先生曰く「人間なんてそんなもんだよ。叩くと言えば、勉強をするけどそうでなければ勉強なんかしない・・・・・・」教室の中は重苦しい空気が漂う状況で教室から自宅までたったの1分たらずの帰り道があまりにも遠かったのを今でも思い出すことがあります。
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10. 「絵がうまいっっっ。いや、綺麗。」
道徳の時間をいつも楽しみにしていた。そんなある日のこと、干支の話しの中で各動物の絵を描いてから、この年に生まれた人は、こういう性格などと詳しく説明してくれた。まぁ〜この絵が、上手でして、今にも動き出そうとしているではないか。さて、1番分かりやすかったのが、鳥年の人のことである。「鳥年には2通りいて、内側にかく人と、外に散らかす人の2通りの人がいるのだ」というのである。これは、中学生の僕でもよく分かる。僕の場合には、イノシシ年なのでそのまんま真っ直ぐに進んでいくという事もよくよく理解できるのである。それから、どれくらいの時間がたったのかはまったく記憶がないのだが、墨絵というんでしょうか、墨汁と筆で書く、パパイアの絵はなんともいえないくらいの美しさで、先生が美術まで教えているとは2年生になってから知ることになった。
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11. 「インド人は、カレーを手で食べているんだよ」
今日の給食は、カレーでした。給食係が全員に配り終わったころに、女子生徒が先生に「先生、ごめんなさい先生のためだけスプーンが足りないので今から取りに行ってきますので待っててください」普通なら、「ごめんね取って来てね」というのところが一般的な会話のはずが、「いいのよ〜、インド人は手で食べているんだから〜」と、言った瞬間先生は、いきなり指で食べ始めたではないか・・・。しかし、そのカレーは間違いなく熱いのである。そうは言ったもののあとにはひけずにアッチチといいながら熱いカレーを食べているわけだが、先生がインド人でもあるまいにうまくいくはずがない。確か、3・4回挑戦してからとっとと教室を出て行ってしまいました。あのときの先生の顔を今でもはっきり覚えています。
そして、先生が、その後どこに行ったのか気になったのでカレーをかきこんでから教室を飛び出してみると、今度は、全く違った事をやっているではないか。(実は、先生、給食が嫌いだったんです)
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12. 「***さ〜ん、ブラジャーきつい!!」
「インド人は、カレーを手で食べるんだよ」と言った先生は、カレーをほとんど食べることなく教室から出て行った。そして、ある記念碑〔なんの記念碑なのかは今だにわからず〕に腰掛けて、今度は、スミレを食べているではないか・・・・・。それを見ていた僕に「基君も食べる・・・」と聞いてくるのだ。実は、小学5年生の時に食べたことがあるものだから、あんな物食って・・・。と、軽蔑もした。ところが、面白いことはここから始まるのです。給食時間とは言え、歩いている生徒もいるわけですが、女子生徒に、ニヤニヤしながら「***さ〜ん、ブラジャーきつい」と、言うのです。それだけならともかく、愛用のいや護身用とでも言えばいいのか、例のベルトを腰から抜いて自分の胸にベルトを締めてから胸を突き出すようにして言うからこれがまたリアルなのです。嫌がる生徒もいましたが、冗談の聞く生徒はうまく先生をかわしていたような記憶があります。〔写真は思い出の記念碑〕
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13. 「君たちが、この世に生まれた理由がある・・・」
小学6年生のころからかあちゃんに、「俺を勝手に生みやがって・・・」と、言っていた時期がありました。先生の道徳の時間はたいへん面白く、また、何を言っているのかわからないこともありました。そのなある日の道徳の時間に先生は、「君たちは、親に、勝手に生みやがって・・・と、いっているだろう」ギクッ!!。なんで僕の家のことまでわかるの・・・と、思った。
先生曰く、「君たちがこの世に生まれて来たのは、君たちが承諾して生まれてきたんだよ」と、いうのです。「君たちが生まれる前に、君たちは神様の前で、自分の人生のすべてを書いた本を見せられてそれでいいですと納得してから君たちが生まれたんだよ、なにも親が悪いんじゃあなくて、君たちが悪いのだ」という。「親に勝手に生みやがってなんて言ってはいけない」この話は、興味のある話であった。まるで、僕がかおちゃんに言っていることを知っていてそういった話をしたのではないかと・・・思う時があった。早速、かあちゃんこの話をしたら、かあちゃんは喜んでいた。この日以来、この年になるまでそんなことを母に言ったことは一度もない。
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24. 「ハイハイ、男は出て行きなさい。チンチン臭いから」
先生の国語の授業が終った。次の瞬間、先生は「ハイハイ、男は出て行きなさい。チンチン臭いから」と言って我々男子生徒を追い出すのである。次の授業は体育の時間なんですが、当時は、もちろん、更衣室なんていう気のきいた部屋なんかあるわけもなく・・・。先生曰く「先生がちゃんと守ってあげるからねぇ」と言いながら、顔は、スケベ顔になっているではないか。おまけに、両手を広げてまでいる。ニヤニヤしたその顔を見ていると、女生徒から、顰蹙をかったり、以外にも受けたり・・・。本当に退屈なんかしない面白い一瞬の出来事だった。
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25. 「パンツは毎日履き替えるんだ」
何の授業だったのか道徳の時間だったのかは定かではないのですが、ともかく、下着は毎日綺麗な物を履き替えなさいと行っていたように記憶しています。ところがね当時の僕は、2・3日に1回しか履き替えなかったのです。新聞配達をしていたので同級生よりも金回りは良かったのですが、なぜか、下着だけは、2・3日に履き替えていたのでどうしようか困ってしまったことを覚えています。
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26. 「ガムを噛むと歯磨きしなくていいんだ」
なんの時間かはすっかり忘れているのだが、ガムの話が出てきたのである。「ガムを噛むと歯磨きと同じなんだ」という先生に感化されて、早速、その日から何日間かはガムを噛む毎日が続いた。毎日ちゃんと、歯磨きをしているのだが・・・。本当にガムを噛むと歯磨きと同じなんだろうかと不思議に思っていてそれからいつのまにかガムも買わなくなっていった。
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27. 「六法全書は恐ろしい本」
先生の過去になにがあったのかは分からないが、1年間の間に何度となく裁判官や六法全書のことが話に出てくるのである。もちろん、六法全書なんていったいなんの本なのか分かるはずがない。先生曰く、「恐ろしい本だ」という意味ありげな言い方だけが記憶に残っている。では、早速、その六法全書というのを買ってこようとその日に楠田書店に買いに行ったのであるが、店員さんがビックリして「ないです」というのである。しかし、「小六法はあるよ」というのである。今の金額で3800円くらいだろうか。当時の私は、現在のお金に換算して2・3万円くらいは新聞配達で稼いでいたのでそれくらいのお金なんかには不自由なんかしていなかった。学費から全部自分で稼いでいたのだ。それはともかく、家に帰ってから、パラパラっとみてみるとなんとそこには、漢字とカタカナしかかいていないではないか。いったいこの本のどこが恐いのか・・・。それから何年もしたてから六法全書をみてみたらまったく同じ状態であった。う〜んこんなのわからん!!。
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28. 「人間は腹八分なんだ」
「僕はねぇ、犬とか猫が満腹に食べるのかと思ったら人間が満腹に食べるんだ」と話し始めた。一体何の話なんだろうか。腹一杯食べてどこが悪いのだろうか。この後の話は記憶にはないが、早い話が、腹八分にしなさいということなんだろう。
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29. 「僕は成績が悪かったんだ」
「僕は成績が悪かったんだ・・・!!」という先生。色々な人生を確か話したと想像している。そんなある日のことである。先生は、自分の通知表を僕たちに見せてくれた。「僕の家は、昔、火事に遭ったんだ、だから、通知表もこんなになったんだ」と言って皆に見せてくれた。その通知表の半分近くが焼けていて、よくも現場から探してきた物だと感心していました。そして、次の瞬間「あっっっこの通知表、金久中学校の通知表・・・・」と、見抜いた生徒がいたのだ。まぁ〜この先生、ご親切にも、我々に勉強させようと巧妙に仕組んだ細工ではあった。が、いとも簡単にばれてしまったのだ。でも、今でもありがたいと思うと同時に、思い出しては笑う、笑う。そのおかげで、あなたのような正確、いや、性格になってしまったのだ。
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30. 「反省しなさい」
ある日のこと、運悪く、友達とじゃれあっているうちに、右腕か左腕かはすっかり忘れてしまったが、肘で、ガラスを割ってしまったのです。血が止まらずにいたものですから、保健室の同郷の綺麗な先生が、病院まで引率してくれました。そこまでは、よかったのですが。当時、「反省文」とかいうわけのわからんものがありまして、「反省文を書いてこい」というのです。素直に、書いて持っていったのはいいのだが、F先生はなんと、5mmの幅の線を引いてこの紙(縦が10cmちょっとで、横が8cmくらいだったでしょうか)いっぱいに書いて来いというのです。早速、帰ってから書いたのですが、どうも5mmの幅では書けないので、次の日に、「先生、小さすぎてかけません・・・」というと「鉛筆を書けるように削ってから書いて来い」というのです。挑戦してみたのですがジェンジェン書けマッシェン。おまけに、どうやって書けばいいのかがもっとわからなかった。その後のことは、記憶にありマッシェン。(笑い)
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31. 「あれは、中国製の万年筆」
先生は独特の筆跡の持ち主で、カクカクした字を書くものだから、僕たちには、なじみやすい字ではあった。そんな、ある日のこと、なんとあの万年筆は、中国製だというのだ。だれが言ったかはしらないが。その当時の万年筆は、今のようなカートリッジ方式ではなく、今では懐かしい、スポイト式なのです。その中国製等万年筆を、僕は、「性能がいいのだ」と、勘違いをしてしまったのだ。先生が使っているからいい万年筆だと思い込んでしまったのだ。そして、それが、災いになっていくのであった。
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32. 「怪しい万年筆売りのおじさん」
偶然というか、仕組まれたのかは記憶にもないが、なぜかしらそのころ、学校の近くで、万年筆を売っている叔父さんが要るではないか。先生とまったく同じ万年筆を並べて売っているものだから、欲しくて欲しくて、たまった物ではなかった。次の瞬間、家へ10秒足らずで走っていき、引出しから出したお金の金額は忘れたが、そこそこいい金ではあったに違いない。早速、その万年筆を買ったのだった。これが、勉強を捨てて財閥の道を歩き始めた私だから、たかが何千円の金なんか惜しくとも何ともないのがだれよりも強みではあった。ところがである。ほとんど使ってもいないのに・・・だれかに盗まれてしまったのだ・・・。それから、あの万年筆はたいした物ではなかったことを知った時に呆然としたものだった。それから、約2年後のバレンタインデーのお返しに、当時3000円もしたパイロットの万年筆を送ったら、ビックリされちゃって・・・彼女とはほとんど口を聞くことなく漠然というか無味乾燥な淡い恋らしき思いは・・・・。あ〜っ!!万年筆とは、全然、円も、縁もない中学生時代ではあった。
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33. 「同じ言葉でも国語辞典によっては意味が違うんだ」
これはもちろん、国語の授業の時だったんですが。国語辞典によって同じ言葉でも意味が違うというのです。いったいこの先生何を言っているのか・・・。日本語なのに・・・。と、思ったことがある。それでは、早速、下校してから、アルバイト財閥の私は、また、楠田書店に走って多分3冊くらいの国語辞典を買い込んだのだ。そこまではよかったのだが、いかんせん勉強する習慣が全くなかったので何度かパラパラめくってからそのまま本棚らしきところにお行儀よく並んでいました。それから、数年してから、弟が「なんで同じような辞典があるの」と聞かれたので今のような話をしたらあきれ返っていたが、「これは御前にあげる」で解決した。しかし、この年になるまで、本当にそうなのかは定かではないが国語の先生が言うのだから間違いないのだろう。
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34. 「水もご飯と同じように噛むようにして飲むんだ」
なんの授業の時にこの話が出たかは定かではないが、「水もご飯と同じように噛んでのむんだと」言われた時にはブーイングであった。なんで水を噛んで飲まなければいけないのかというのが僕たちの考え方だった。まぁ〜ともかく、皆さんも1度試してみてください。
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35. 「神様は、赤ちゃんにパワーを与えているんだ」
たぶん、道徳の時間だったと思うのですが、話は、赤ちゃんの話になりまして。先生曰く、「生まれたばかりの赤ちゃんには、神様はすごいパワーを与えているんだ。片手に鉄棒を持たせてから持ち上げると、赤ちゃんは自分の身体を同時に持ち上げるのだ」というのです。馬カバ鹿しい話は大好きなんですが、ここまで馬カバ鹿しくなるとあきれ返ってしまうのです。なぜ、赤ちゃんが、自分の身体を宙に浮かせるような事ができるのか・・・。そんなことができるはずがないではないか・・・もう〜そんな話が、1番信じられないし、今までを先生を尊敬していたのに・・・???。
しかし、それから、約11年後にNHKのテレビで鈴木健二アナウンサーがそのような話を始めたではないか・・・。「えっ!!。あの時の話と同じ話をしているではないか・・・。えっっっっっ!!!!???。本当に赤ちゃんは自分自身の身体を鉄棒一本で宙に浮いているようなパワーがあったのか????」いやはや、あれには、ビックリした。真実の話を先生はしてくれたのだ。
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36. 「全員、竹刀でお尻を叩かれる」
なぜ、そうなったのかは今だに、記憶がよみがえってこないのですが、全員、教室から出されて、1人1人をしないで、叩き始めたのである。竹刀なのでそんない痛くはないのですが、「先生は空手3段」が全員の脳裏をかすめるらしく、打たれる瞬間、腰を前にして痛みを和らげる生徒。女子の場合には、スカートが幸いしたのか、たぶん、だれもそんなに痛くはなかったと思うのだが、へんに先生は気合が入っていたのはなぜだろうか。41人も叩くとなると気合がはいるのだろうなぁ。
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37. 「下敷きであおぐな」
真夏でなくともここ奄美大島は暑いのです。そんなある日のこと、授業中にほとんどの生徒が下敷きで団扇代わりにパタパタとあおいでいるから先生としてもいらいらしたのだろう。これは、ちょっと、まじぎれしていましたが、「下敷きで仰ぐな」と、激怒したのです。次の瞬間「下敷きを目の前に立てて、自分が左右に首を振ればいいのだ・・・」というのである。もちろん、先生が見本を見せるのだが、当の先生が赤くなってクラクラしているではないか・・・。まぁ〜説得力のないこと。しかし、やってみると、想像通り、頭がどうにかなりそう。
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38. 「パンの耳と中の真っ白でやわらかいところはどっちが栄養があるのか」
この問題は、色々と僕たち生徒の中でも議論をしたところなんですが、先生曰く、耳の所は、焼いているので栄養があるというのです。しかし、ほとんどの生徒はなっとくしていない。
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39. 「1番美味しいパンは、1日たったパンが美味しいんだぁ」
給食の時間が、勉強嫌いの僕にとっては楽しいひと時でもあった。給食室にパンを取りに行くと、焼きたてのパンとそうでないパンがはっきりわかるのです。誰もが、焼きたてのパンの日には大喜びをしているのでした。そうした、僕たちを見ていた先生曰く、「パンは1日たったパンが美味しいんだぁ」というから生徒からは顰蹙をかっていたのだ。あの焼きたてのパンの香りとか、フワフワなところをガブッと食らいつく時のなんとも言えない美味しさがあるのです。ところが、1日たったパンは、あたりまえの話だが、冷たくて堅い?感じがする。
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40. 「道徳は着物の脱ぎ方?」
今日から、待ちに待ったF先生の授業が始まる日です。授業の前に、時間割の説明があったのですが、月曜日の1時間目が道徳の時間だったのです。そこで、先生が、「道徳は、着物の脱ぎ方なんだ〜?」とわけのわからん事を言い出したかと思うと、「着物の帯をどうとくか」と、洒落というか駄洒落できたのであった。これには、生徒一同はどういう反応をしていいのかわからなかった事をよく覚えています。
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41. 「死ぬまでに、この2冊の本を読みなさい」
先生は、君たちが死ぬまでに2冊の本を読みなさいというのだ。まず、その1冊が「聖書」である。当時の私としてはいったいなんの本なのか全然検討がつかなかったのだ。そして、2冊目の本がトルストイの「戦争と平和」というのである。トルストイはかろうじて、小学校の時に、イワンの馬鹿を読んだことがあったのでわかっていたが、戦争と平和だけはまったくしらなかった。2冊とも、その理由を言っていたのだが、これ以上の記憶はない。さて、残念ながらこの2冊の共通点があまりにも長すぎる本であるということです。何度か挑戦してみたのですが、本屋さんでパラパラで終わってしまうのです。まだ、死ぬまでには時間があると思うので挑戦はしてみますが。
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42. 「100点満点」
確か、突然だったと思うのだが、漢字の書き取りテストをすると言うのだ。これには全員がブーイングの嵐なのだぁぁぁ。それで、話が終わるのならともかく、なんと「全員が100点をとるまでやる」というのだ。おいおい冗談じゃあないよっ!!。いつまで続くのかと思うとゾットすした。いかんせん、我がクラスは学年で最下位の成績なので・・・それを思うと絶望的になったのです。はっきりした記憶はないが、何度か同じ漢字の書き取りテストをやったことは覚えているが、全員が100点とるまでやったかは記憶にない。同じ事を100点とるまで頑張ってみること、同じ事を100回やってみることを大人になってから理解し、仕事に役立てる事にした。
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43. 「神経は通っていない方がいい」
何の話からこんな話になったのか記憶にないのですが、ある生徒が、「神経が通っていない方が痛みがわからないからいいんじゃないですか」と言うのだ。すかさず先生は、「昔(外国の話しらしいが)そういった人がいて、手を切っても神経が通っていないから後は死んだんだ」沈黙の時間であった。
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44. 「アンチミサイル」
これも、どんな話しからこういう話しになったのかは記憶にはないが、アンチミサイルの話しがあった。これは、レーガン元アメリカ大統領もスターウォーズ計画の中でも説明をしていましたが、敵国からミサイルが飛んできた時に、自国のミサイルで打ち落とす。しかし、敵もさること、また、ミサイルを発射してくる。それを自国のミサイルで打ち落とす。という話しなのです。なんだか、わからないのだが、これも面白い話しだなぁ〜と関心したことがある。
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45. 「採用試験」
中学1年生の僕たちにとって、先生の話しは、難しかったり、一体何の話しなのかが理解できるはずないというような話しは多くあったのですが、この話しは、意外にも印象に残っている話しなんですが、採用試験の面接の時に、その人の面接が終わると、通路には、小さな針かゴミが落ちてると言うのです。それを自国のミサイルで打ち落とす。という話しなのです。なんだか、わからないのだが、これも面白い話しだなぁ〜と関心したことがある。
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46. 「俺のオッパイを触りに来るやつが2人もいる」
中学校に入学してから必ずあるのが家庭訪問とこの身体検査なのです。場所は体育館、なぜか、女子生徒は舞台の緞帳の向こうで身体検査をしているとなるとそこばかりが気になってしょうがないのです。そう僕たちは、上半身裸で、胸囲とか視力検査をしているのですが、幸か不幸か私の胸はプロレスラーのような胸をしているものですから、スケベ大好きのT君とF君が「基、触らせろ」と言って私の胸を触りに来るのです。スケベごごろにめざめたやつらは満足そうな顔をするのだが、どうも緞帳の向こう側が僕も含めて気になるのである。
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47. 「ブス、視力0.2。綺麗、視力2.0。」
上記の身体検査の中に視力検査がありました。担任のF先生と背中合わせに検査しているのが、医務室のS先生なんです。この先生がまた、子どもながらにもいい先生で可愛さの中に色っぽさというかなんとなくいい感じなんです。F先生は、そのS先生を指して、生徒が「ブス」というと「0.2」と言い。「綺麗」と言うと、「2.0」と言うのだ。本当にそう書いているのかはさだかではないがS先生が受ける受ける・・・。見ていて最高。いやはや、こういった時だけがあの緞帳が気にならないのであった。F先生は、そのS先生を指して、生徒が「ブス」というと「0.2」と言い。「綺麗」と言うと、「2.0」と言うのだ。本当にそう書いているのかはさだかではないがS先生が受ける受ける・・・。見ていて最高。いやはや、こういった時だけがあの緞帳が気にならないのであった。
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49. 「スパイ大作戦」
何の話しからこの話しになったのかはさだかではないのですがこの話しも面白かった。スパイというのは、かっこよくドアの鍵を開けるときにも後ろを気にしたりなんかしないんだ。平気で酒も飲むし、ドアの鍵も何も考えずにあけるんだ。その方が、誰が考えてもそんな人がスパイだとは思わないというのだ。中学生にスパイと言ってもピンとこないわけだがなんとなく興味があり、のちに、007のファンになる最大のきっかけになった。その方が、誰が考えてもそんな人がスパイだとは思わないというのだ。中学生にスパイと言ってもピンとこないわけだがなんとなく興味があり、のちに、007のファンになる最大のきっかけになった。
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50.「先生の顔にチップボールが一撃」
級食後は、男子も女子も遊んだり、なにをしているのか分からないけど、色々自由にやっていました。さて、僕は、柔らかいボール。確か、チップボールと言っていたような気がするのですが、ルールは忘れましたが、相手にぶつけるゲームだったと記憶しています。そして、F先生が、歩いてきたときに、誰かは忘れたが、投げたボールが先生の横顔に一撃。かなりいたかったようなのですが・・・。周りは、息を飲み込んだ。先生曰く、「当たった僕が悪いんだ・・・」と、言って教室へ入っていきました。全員が、きっと怒るだろうなぁ〜という顔をしていたのです。
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51. 「父が死んだ日」
僕は、父の顔を知らない。
ある日のこと、ホームルームの時間に突然、先生が「基、家に帰ろ!!」と、言うのだ。当然、みんなが変な顔をする。すかさず「なんで・・・」「いいから帰ろ」先生の顔つきが違うから、泣く泣く、一分足らずの家路に急いだ。
下校すると、母ちゃんが、「お父さんが死んだの・・・」と、言う。「いったい何の話だ・・・」。何日に、じいちゃんが、来るから一緒に島(与論島)に帰りなさいと言う。
そして、その日がやってきた。じいちゃんが、小さな白い箱を持ってきた。じいちゃんが、母ちゃんに、「川秋だよ」と、言って骨壺を開けた瞬間、母ちゃんが「まさやかぁ〜」(ニックネーム的な呼び方)と、言って号泣するではないか。母ちゃんと一緒に暮らしていて、こんな事は初めてだった。骨壺の中には、なんだか白い物があって、母ちゃんが号泣したときに、バランスを崩したらその白い物が少しだけ崩れた。いったこれは、なんなんだぁ・・・。とっても、不思議だった。
じいちゃんと船に乗って、島(与論島)に帰った。家では、お葬式の準備なのか・・・。夜になると次々と人が集まってくる。お葬式というのに、話をしたり、酒飲んだり、食べ物を食べているこのわかりづらい空間が僕には理解できなかった。
しかし、もっと、不思議だったのは、ばぁちゃんが父ちゃんの遺影の前で、三日三晩泣き続けていた。
翌日は、お葬式で、御輿のようなものを担ぐ人、旗を持つ人。僕が、先頭に立って歩くのだそうだ。でも「絶対に後ろを見てはいけない」と言うおじさんの言葉が余計に、後ろが見たいという好奇心に心と首が動こうとしている。
家から、お墓まで、大名行列のように歩いていった。お墓では、父の好きだった、焼酎とタバコはハイライトだった。この他に、何をしたかは記憶にない。後日、形見分けとして、SEIKOの腕時計と何かをもらったが、今、手元に一つもない。
実は、父ちゃんは、酒乱だったのだ。結婚を反対されたが20歳の母ちゃんは、そんなことは知らなかったらしい。結婚してからも酒乱が直るはずもなく、暮らせなくなった母ちゃんは、21歳の時に、生後11ヶ月の僕を負ぶって、所持金3000円をもってあけぼの丸(500トン)に乗って鹿児島に行く予定だったが、不幸にも、今も昔も、船足よりも電報の方が早く、名瀬港到着の時に親戚に引きずりおろされ、その後、この島で暮らすようになった。だから、僕は、父の顔は知らない。
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ちょっと横道に入って、M先生に登場してもらうことにします。
この先生のニックネームは「カマキリ」。ガリガリに痩せているのだ。担当は社会科の先生である。誰が見ても、超個性的で面白そうなのだが・・・。甘かったというか・・・・。ここからが、ちょっと悲惨な展開が繰り広げられるとは。
さて、皆さんも経験があるかと思いますが、担任の先生とか、担当の先生がなにかの都合で休む時があったことを経験されてることと思います。社会科のS先生が休んだので、なんとM先生がくるという情報が入っていたので・・・教室では期待感が高まる一方なのだ・・・。ところがであるここからがたいへんな50分間を体験しなけばならないのである。
教室に入ってきたのはいいのだが、授業を始める様子は全く無いのである。それはそれでいいのだが・・・。なんと、先生の目の前にいた、K君を手招きしたつぎの瞬間、鉛筆削り器の鉛筆を固定させる部分と言えばいいのだろうかそれを引っ張ってから「レバーを回して、戻らないようにしろ」というのである。もちろん、できるはずが無い。構造上無理なのだから。そこで先生曰く、できなかったという事で、「手のひらを机に強く叩きつけて飛び上がれ」正直に、K君がやったのはいいのだが、M先生は、「弱い」といって怒るのである。冷静に。迷惑千番なのはK君なのである。なんと、こんなことばかりだけで、50分間が過ぎ去っていったように記憶しています。この先生、誰が見ても頭が良さそうには見える。間違いなく。山口県萩市の出身という事だったのだが、当時は、あまりピンと来なかった。ともかくともかく、酒が大好きのようなのです。学校の近くに酒屋さんがあってそこでは、時々、気のあった先生たちだけで飲んでいたようなのだが・・・。
この先生に関しては、子どもの名前が変わっているとか、給料のほとんどが酒代と本代で消えていくとか。
そして、ある日のこと。私の郷里は、奄美大島から船で約7時間くらいの所にある与論島なんですが、学割をもらいに職員室に行ったのはいいのだが行列がすごいのだ。我慢して並んでいるとあまりにも暇なので・・・あっちキョロキョロ、こっちキョロキョロしてから、あと2人という時になにげなく先生の字はどんな字を書くのか興味があったので覗きこんだ次の瞬間「わぁ〜綺麗・・・」と口をついて出てきた、次の瞬間「だれだっぁっ」なんと、目の前にいた先輩が「コイツです」というジェスチャーをするので「しまった・・・なにを言われるのだろうか」と思った次の瞬間、先生は「君が先」と言って目の前の2人を飛び越して私の学割を先に書いてくれたのである。あ〜ぁハラハラドキドキしました。だって、前の2人は先輩なんだもん。ともかく、今の今まで、あんなに綺麗な字を書く人を見たことがなかったのです。
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超個性派のS先生に登場してもらうことにします。
学校では、色々な教科があるわけですが、勉強のできない私にとっては最大の点数稼ぎの教科が社会科でした。この時間だけは勉強嫌いの私も真剣勝負でした。幸いにして、独特の先生で勉強は面白かったことを覚えています。細身で、髪の毛はフサフサ、歩く姿はちょっと急ぎ足で僕たちの目から見てもちょっと変わっている先生には充分に見えた。授業内容はすっかり忘れてしまいましたが、悪い頭には以外にもスムーズにというか自然体で先生の話が毛根から脳に浸透していくような記憶がある。
S先生の口癖が「あ〜それなのに、あ〜それなのに」が口癖でした。ところが、ある日のこと、一番後ろにいた生徒がそのS先生の感に触ったのかいきなり黒板のところから後ろまですっ飛んで行った次の瞬間、その生徒はボコボコに先生に殴られてしまったのである。即効性と言えばいいのか、いい意味でも、悪い意味でも、我々のクラスの全員におおきなショックを与えたのである。
また、別の日だったのだが、先生が生徒を殴ったからといって訴えたかったら訴えてもいい・・・。というのだが、僕たちにとってはその「訴えていい」という意味が全然わからなかった。
そして、ある日のこと、先生の授業の時にいつもの口癖のタイミングを僕たちが分かったときに、先手を打って「あ〜それなのに、あ〜それなのに」というと、少し先生がムッ!!としていた。
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体育の I 先生登場
学校というと色々な思い出がありますが、なんといっても好きな先生と嫌いな先生が思い出になっています。その中でも、ダントツで嫌われている体育の先生がいまして・・・。皆その先生が嫌いなのです。たぶん、「いちいちうるさい」という受け止めたになっていたのでしょう。上記、32「反省しなさい」のところでガラスを割った話をしましたが、そのガラスを入れてくれたのがその先生でした。その時に、先生と色々な話をしながらガラスを切ってから窓枠に入れるまでの行程を教えてくれたのですが、「意外といい先生かなぁ〜」と、思ったことがあります。もっといい先生だっと思ったのが、なんと、1学期は、体育の通知表で「5」をもらったのだ。(これは体力測定全般がよかったためだと思います)それでも、あまり好きになれなかったのです。そして、それから、運命の日がやってくるとはその頃は想像もしていませんでした。
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*** 中学2年生の頃 ***(この頃は、僕は、F先生の隣のクラスでした)
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今年からは2年生になる。担任のU先生は鹿児島の人で奄美大島は初めてのようだった。残念なことに、僕の好き先生は隣のクラスの担任をしているのがくやしくてならなかった。隣のクラスは毎日が「面白いのだろうなぁ〜」と、思うと絶望感を感じたものだった。
さて、その先生であるがかなり情熱的な先生で教育熱心そのものという感じの先生でした。口癖が、「沢山の映画を見なさい」だった。ピントこなかった。(それもそのはずで、学校では映画を見ることが禁止されていたのだから)色々と映画の話をしたのだがあまり記憶にない。たぶん、チャップリンの映画を見なさいくらいは言われたのだろうとは思う。その後、体育館で「禁じられた遊び」が上映されたが、動物か何かを殺して、埋めてという男の子と女の子の映画だったんですが、何の話かまったく理解されずこれほど退屈した日はなく一瞬ではあるが、勉強がいいかなぁ〜と思ったことがある。
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1. 「ウンチュム、窓を描いたら窓を開けろ?」
F先生は、国語の先生でもありましたが、クラスによっては美術も担当していたようです。ある日の美術の授業の時に、M君のニックネームが「ウンチュム」といいます。さて、美術の時間といえばなんといっても基本は、写生です。ウンチュムは、紙になんと校舎を描いたようなんですがそれを、F先生曰く「ウンチュム窓を描いたら窓をあけろ!!」と、言われた次の瞬間になんと先生は、カッターナイフらしきもので、その窓に切り込みをいれてまるで窓が開いているようにしたというのです。話はこれではおわらず、このことが、私たちのクラスに伝わっていったのです。それを聞いた皆は、大笑い・・・・・。あまりにも先生らしい行動にただ笑うしかなかったのですが。ウンチュムもこんなことをされるとは思わなかったはずです。私が思うには、たぶん、絵がへただったのでしょうね。「ウンチュムごめんねぇ」。
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2.. 「川端康成は、死ぬ!!」
大好きだったF先生からH先生に変わってから国語の時間が退屈な時間になった2年生のころ。話によるとその先生は、校長先生よりも偉い先生らしく・・・・そういえば、中学生の僕が見ても年取ってるってわかるくらいですから。あまりにも僕たちと年が違いすぎて面白くないし、モーションも鈍いので、こんな授業ほどつまらないものはないのでした。ところがある日の国語の時間に、先生は本を読みながら僕たちの間を縫うように歩き回っていました。そして、次の瞬間、「川端康成は死ぬ!!」と、言ったのです。うっすらと川端康成はわかっていてもいったいどういう人なのかわからなかったんです。
その次の日、新聞配達をしていた、いやこのころは厳密には、新聞発送業務だったのですが、新聞を読まない僕は、その日だけはなんとなく新聞をめくってビックリ「川端康成自殺」と、あるではないか。僕は、子供ながらに「先生が殺したんじゃあないか」と、思ったくらいです。それ以来、その先生の言う一言一言を注意深く聞くようになった。しかし、この一言以外は全然記憶にない〔笑い〕あの衝撃は今でも昨日のことのようにとはこのことをいうのかと今でも驚かされる人生のひとこまでもあった。一年一年、年を重ねる時に、色々な人からの教えをこう素直な気持ちが人間には必要であり、色々な人たちとの出会いで大きく成長していく自分を見ることができました。
時々、あの日の事を思い出すときに、国語の先生だからこそ川端康成の死を確信できたのかなぁ〜と考える時があります。何かを極めた時に、人は、その業界とか人物の将来像が鮮明に見えるのかも知れません。数年前に他界したH先生に合掌。
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3. 「天皇陛下〔昭和天皇〕がやってくる」
勉強嫌いの僕は、「ある日こんないい日はないっ!」と思ったものです。なんと、昼からは、自習時間が1時間あるというではないか。教室では歓声があがり僕は、「なんていい日だ!!」。ところが、朗報がまた、来たあと1時間というのだ・・・・。いやぁ〜もうこれは、天国ではないか、好きな女の子を見たり、友達を見たり・・・ただただ時間だけが過ぎていくのである。そのころ、職員室では、察するところ天皇陛下がくるので、日の丸の旗をもって道路で振るという事を生徒にさせるかさせないかという事でもめていたらしいのです。
もちろん、私は、勉強がないのであれば、天皇陛下を見に行くのがいいにきまっているし、もっと大事な事は、勉強よりも車の方が好きでして、あの一生に一度しか実物を見ることができない「日産プリンスロイヤル」を見れるという事を知っていた僕は、もう胸はワクワクするばかりで、当日は喜んで学校を後にしたものです。天皇陛下のおかげで、2時間は自習時間だし、おまけにまた、2時間も遊べるのだからこれは最高。「来た来た、日産プリンスロイヤルだぁっっっっ・・・・」天皇陛下なんか見ていない。もう、車にくぎ付け・・・・「あの車がほしいなぁ・・・」「でも、スカイライン2000GT-Rがいいかな。いや、フェアレディZ432がいいかなぁ」もう頭の中は、天国じゃあないですか。「あっもういっちゃった」でもあの瞬間はとっても長かったです。ほんの数秒が何時間に感じられた一瞬ではありました。
そして、それから約17年後天皇陛下の死亡年月日をビタリと当てるとは想像もしていなかった。
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4. 「先生のほうが大きいですね」「いいえ、先生のほうが大きいですよ・・・」
今日は、水泳大会の日です。どうも、この水泳は苦手で、あまり泳いだことがないので・・・。でも、大会は、始まったのである。さてさて、各クラスの先生たちが泳ぐ番になりました。先生方は、皆、飛び込む姿勢なのにF先生だけはなんと空手ぎで登場するではないか。歓声がプールの周りから聞こえてくる。「F〜。F〜。」〔先生に先生なんて言ってませんでしたから、皆呼び捨てでしたけど〕そして、次の瞬間に「ド〜ン」他の先生はかっこよく飛び込んだのに、F先生だけは、空手の飛びげりでジャポン!!。ここからが、面白い。なんとクロールはいいのだが、歩いているのだぁ。息継ぎの際に、右側で息継ぎをしたようにして右側の生徒たちに手を振っているかと思うと、今度は、左側にいる生徒に手を振っているのである。先生らしい馬鹿馬鹿しさにプールサイドは歓声が上がる一方で25mのプールでおきたたった10分足らずのF先生のショーは終わった。
ところが、その後があるのです。泳いだ後は、必ず、目を綺麗に洗いなさいと、指導されていましたし、体ももちろん洗わなければならないわけですが、プールサイドに水道がありまして、蛇口にホースがあってそれで体を洗っていたのですが、なんと、F先生とFY先生は一緒に洗っているではないですか。なにかあるなぁと感じた私と友達はその光景を見ることにしました。「先生の方が大きいですね」「いいえ、先生の方が大きいですよ」「エッ!本当ですか」各自の一物を見比べながらシャワーを浴びているというか。一物確認会?というか。その姿を、校長先生と女子生徒の2人がしっかっと見ていたのです。あ〜楽しい水泳大会だった。
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5. 「今日から修学旅行・その1」
今日から、修学旅行である。始めて行く鹿児島と熊本である。どんな、ところなのかワクワクしてくるのだ。みんなあまみ丸に乗って船出をしていった。翌日、鹿児島についてから、確かジャングルパークでの食事だったと思うが、その前に港だっただろうかバスガイドの人たちだっただろうか、巨人の星を歌うのである。いったい何の歌なのかまったくわからない・・・。あとからわかったのだが、奄美大島に民放がないことをしらなかったのではないだろうか。生徒たちはみんなキョトンとしていた。さてさて、食事も終わってバスに乗って熊本へと向かった。そして、鹿児島での最終日には山形屋であった。一番人気は、手品のコーナーだった。もう〜目の前は白黒・黒白と・・・。だまされてばっかし。
ところで、その前に行って来た場所があるのですが、島津家所有の「尚古集成館」に行って来た。もいえるコレクションです。昔の物が色々並べられている。刀、鎧、わけのわからない字が沢山書いてある長い紙・・・・。それを見ていると、隅っこの方に人だかりがあるので行ってみると、F先生がいるではないか、「おいおい、もっとこっちにこい、そうすると沢山人が集まってくるから・・・」くるはくるは、「なになに」先生曰く「こうやって人だかりがあるとなにもなくても人が来るんだ・・・」人間心理をうまく付いたほんのひと時だった。
尚古集成館ホームページ
■幕末までの700年の歴史がある島津家に伝わる史料を収蔵・展示する歴史博物館。所在地は鹿児島県鹿児島市。
※ 鹿児島市に行かれた際には是非お立ち寄りください。島津藩が奄美群島を支配していた頃に、黒糖を生産させ、その利益は莫大な物でした。薩摩藩の繁栄の集大成ともいえるコレクションです。
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「今日から修学旅行・その2」 女子生徒が男子生徒の風呂場をのぞいていた」
宿泊したのは、霧島なんとかホテルだったと思います。ともかく大きな建物でした。友達と、風呂をはいってから、ホテル内を見て周ろうと階段をおりていったら、女子生徒が正座させられて、体育の先生が、「なんとかかんとか・・・風呂場がなんとか・・・」といっているのです。なんで、風呂場と女子生徒の正座と何の関係があるのかと・・・わけがわからん状態だったのです。
そこで、早速、「おいおい・・・なんなんだぁ。あれは」と友達に聞くと、「女子生徒が、男子生徒の風呂場を覗いた」というのだ。「いいじゃないか、一緒に入れば・・・」と、僕は、本気で思った。「だっていいよねぇ」「あぁぁぁ〜一緒に入りたい」と思う僕は、力が抜けてしまいヤクルトのジュースを買って部屋に戻ったのかどうなったのかはいまだに記憶がない。あぁぁ〜残念。
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「今日から修学旅行・その3」 担任の先生が、下通り(熊本市)に連れて行ってくれた」
担任の先生は、異常なほどの教育熱心な方で、各自の部屋にいた僕達を(確か10人前後の男女だったと思う)熊本市の下通りにつれて行ってくれた。電車に乗って、到着した下通りは、僕達の名瀬市にある、アーケード街とは比べ物にならない幅と奥行きには圧倒された.先生曰く、「「修学旅行は、こういった地元の人達がいろようなと頃をみるのだ」と、いうふうなことを話てくれたような記憶がある。まさか、それから、ほぼ3年後にここにいようとは僕自身想像していなかった。先生に感謝。
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「今日から修学旅行・その4」 初めて飲んだレギュラーコーヒーの味」
たぶん、最終日だったと思うんですが、ドライブインらしきところで、休憩がありました。なかのいい、例の僕のオッパイを触りに来る、T君とコーヒーを飲むことにした。白いカップに入ってきたそのカップは子どもの僕にも分厚いカップにいったいなんなんだこのカップは、と、ムッとした。そして、飲んでみて、ビックリ。2人で顔を見合わせて、「マズイ」。それもそのはずで、中学生には、苦くて飲めないのである。そこで、砂糖を入れようということで入れてみた。
しかしなのだ。まだ、マズイ。その時、「ハーイ、皆さんバスに戻ってください」「なにっ〜」あわてて飲み干す2人だったのだが、カップのそこには、たくさんの砂糖が1cmとは大げさかもしれないが、それくらいは入っていた。スプーンでその砂糖をかき混ぜながら、呆然となり・・・。未練がましく、バスの人となった。あの時のコーヒー代は高かった。(笑い)
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6. 「他のクラブにしてくれないか」
毎週、クラブ活動の時間がありまして、スポーツクラブに入っている生徒は、バレーとか野球部で頑張っていたのですが、僕のように毎日帰宅部とかだと、いったいどのクラブへ行けばいいのかと考える男子生徒なんかは、実は1人もいなかった。みんな、超人気先生のF先生の?クラブに希望していました。ところがである。余りの人気に、スポーツ系のクラブ以外に男子生徒がいかないものですから、担任の先生が希望変更の要請を男子生徒にしているので私はなにも考えずに要請にしたがった。そして、僕は、美術が得意だったので美術部へ変更することにしました。その当日、なんと、憧れの一級先輩がいるではないか・・・。「やっぱしここかなぁ〜」と、お調子者の僕は喜んだものでした。が、一体、顧問の先生は誰だったのか今だに記憶がない。
さて、それくらい、F先生の人気は絶大なるものだったのです。
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7. 「オッパイもみもみ」
上記のようにF先生のクラブは人気があったのです。その模様は、各クラスの話題になっていたことでしょう。先生のクラブでは、基本的には体操と言えばいいのかいいのだろうか・・・。そんなある日のこと、友達の話だと、手を前に出して、両手をにぎって、はなして、にぎって、はなして・・・。そうなんです。腕が痛くなるのです。それでは、だれもついてこないので「オッパイモミモミ」になるのです。F先生の「オッパイモミモミ」の掛け声はいいのですが、腕が痛かったと話す友達がうらやましかった。
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8. 「毎月同じ日にきれいなおねぇちゃんたちが先生たちを待っている。今日はPTAじゃぁないのに」
今日は、授業参観でもないのに午後からなぜかしらお母さんかが多くいるのです。しかも、洋服が派手なんです。そして、落ち着きがないように記憶しているのと、職員室が気になっているようなのです。当時は、全然わからなかったのですが、飲み屋のオネェちゃんだったのです。その日は、先生の給料日で、飲み代の付けを集金にきていたらしいのです。
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9. 「ピカソには日本人の妻がいる」
ピカソの絵。「エッ!」と言いたくなる。なんであんな幼稚な絵が、教科書に堂々と掲載されているのかが理解しがたい。誰でも描けるじゃぁないかぁと誰もが思うはずである。美術の点数だけが自分の中では最高なものだから憤慨していた。
さて、ある日のこと、突然、美術の先生が「ピカソには日本人の妻がいる」と、いうのである。この人外人だろぉ。と、思った次の瞬間、「うらやましいなぁ〜」と、溜息混じりのうらやましさが、先生の顔に漂っていた。
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10. 「我らホッケーチーム」
教室以外にも掃除をしなければならないのでたいへんだった。そこは、なんと体育館。もちろん、全体の掃除が僕たちのクラスの担当になった。思わず「なんで・・・」と言いたくなるのである。それはともかく、掃除が始まったのだ・・・。もちろん、まじめに掃除をしていたのだが人間は怠け者と言う証明よろしく、だんだんさぼることを覚えてしまったのである。ある日のこと、K君が「ホッケーをしよう」というのである。もちろん、ホッケーの玉(正確にはなんと言うのかわからない)はある。毎日履きなれているスリッパのかかとを指の方につっこんで、ほうきを持って2チームにわかれて試合開始なのだ。もちろん、掃除よりもはかどるというか楽しいに決まっているではないか。いい運動にもなることは間違いない。
そういった楽しい日々が毎日続くわけがない。「コラッー」と、いきなり怒鳴り声・・・。その向こうには、なんとあのN先生が立っているのである。即刻、体育館の外に出されて全員ヒッパタカレル。痛いのはあたりまえの話し。しかし、なのだ。学習効果はこういう時にはっきされるのかと思うくらいである。翌日からは、見張りを2階に1人張り込ませたのだ。「来たーっ」の合図で、掃除係の良い子になり、「帰ったーっ」の合図で試合開始なのだ。いやはや、体育館の掃除がこんなに楽しいとは・・・。えへへへ。
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11. 「僕、生徒会会長選挙にでたいんだけど」
生徒会会長という人がいることは、当然わかっていたのだが、まさかそれに出たいというやつが、我がクラスから出てくるとは思わなかった。それも、昨日今日、転校してきた生徒なんです。だれも彼のことを知らないのです。もちろん、この僕も知らない。そのO君が、いわゆる後援会会長になってほしいというのだ・・・。記憶では「本当に出るのか、落選するぞ」というようなことはいったと思う。さて、いよいよ、選挙演説の日がやって来た。会場は体育館。毎日のように見慣れている体育館だったが、この時ばかりは、10倍くらいの広さを感じたものだった。最大のライバルで当選確実なI君は、ユーモアたっぷりの演説に会場もいい感じである。これはてごわいとすぐにわかったし、この段階で確実に落選すると思った。
そして、等々、わが方はというと、話しの内容が硬いということ。もっと悲惨だったのは、「知名度」という点では当選候補者に較べて、まったく話しにならない。ユーモアもない。勝てる要素は全くなし。また、会場の生徒たちが不思議に思ったのが、僕が、O君の左4bの所に立っているということです。「なんで、あいつが立っているんだ」という視線を体中に浴びているのです。これには、候補者から「僕の演説が終るまでそばに立っていてほしい」という希望だったのだが、回りからはへんな目で見られているのは間違いなかった。
そして、予想通り僕たちは落選した。投票数はまったく記憶がないが、大差であった事は言うまでもない。なんだかわからないままに時間が過ぎていくのを感じた1日だった。
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12.「エッ!、ズボンが入らない」
たぶん、中学2年生の頃だと思うのですが、運動会の応援団の練習の時に、女子生徒もガクランを着た方がいいのではないかということで、男子生徒が、貸すことになった。ところが、ここで大きな問題が発生した。ズボンが入らないというのだ。男子生徒は皆ビックリ。なぜ、男子生徒よりも小さい女子生徒のズボンが入らないのか、全員が面食らった。そこで、ある女子生徒が、「女は男よりもお尻がおおきいのよ・・・」と、いうのだ。あらためて、(スケベ心も入り混じって)よく見てみると、女子生徒は、全員と言っていいくらい僕達よりもお尻が大きい。「なるほど・・・」と,変に感心してしまった。そこで、「あいつのズボンは、いやいや、あいつのズボンが入るんじゃないか・・・」いやはや、いい勉強にもなったが、正直言って、すごいショックだった。
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13.「エッ!、スカートにポケットがあるの・・・」
ひょんな事から、女の子のスカートにポケットがあることを僕達が知ったときに、「ポケットはズボンにしかない」と、思いこんでいたものだから、ショックだった。ともかく、不思議でならなかった。
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14.「オイオイ、女のけんかだぁ〜」 |
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*** 中学3年生の頃 ***
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今年からは、中学3年生になった。F先生も転勤して行って楽しいはずの学校がこれほどまでにつまらないのかと絶望感を覚えたことはない。ご親切にも担任の先生が、皆から嫌われているI先生だし、各教科の先生も面白くなさそうだし、勉強嫌いの私にとっては、受験はあるし、でも、勉強をする必要がないと思っているのでそれは、それでいいとして・・・。ともかくつまらない1年の始まりになった。しかし、ここからが意外な展開をしていくとは想像もしていなかったのだ。あれほど嫌っていたI先生と意外にも話が合うのである。
2年生のころから近眼になった私は、前の席にすわるようになり、その分先生との距離が1番近かったのだ。給食時間なんかは、だれもしゃべらないのに、私と先生は、車の話をしながら給食を食べていたのだが、誰一人としてその話にのってくる生徒はいなかった。そういえば、1年生の時に、体育の通知表に5をくれた先生だったかと思うと急に好きになったりして、人間かってなものである。そんなこんなでいよいよ、中学3年生が始まった。
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1. 「F先生が来た〜っ」
何月何日かは全く記憶にないのだが、ある日のこといきなり「Fがきたぁ〜」と叫ぶ生徒がいたのです。みんなまさか。という顔をしている。転勤したのだから。
早速、教室を飛び出してみると2階の校舎からも、3階の校舎からも生徒が出てくるは出てくるは、皆は口々に「F、F、F」と叫んでいるのである。もう皆は大喜びしているのである。いったいなぜ、島に来たのか今でも不明であるがまぁ〜ともかく皆大喜び。でも、恨めしいことにチャイムが鳴ってしまったのである。
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2. 「校長を刺しに行く」
今日は、卒業式です。これで、高校受験も落ちるし、後はこれさえ終われば勉強をする必要もない嬉しい日々が待っている・・・そんな事を考えると、なんと卒業式はいいものである。えっっっっっっっ・・・・・。「F先生っっっっ・・・・・」我々は驚いた・・・。転勤したはずの先生がなぜここにいるのか・・・。皆が一応に驚いているのである。次の瞬間、背広なんか着ない先生が、コイコイと言って我々に手招きしてから、背広の中を見せるのである。なんと刃渡り30cmのドスを見せるのである。(いや、そう見えたのかもしれない。いやいや違うぞ。例の通知表事件があったから。そうみせたのかもしれない)「先生、これどうするの・・・・」F先生曰く、「今から校長を刺しに行く」。その一言を言い残してどこかえ消えていったのです。
それから、卒業式が始まりました。幸か不幸か私は、1組なので舞台の真ん前なのだ。、校長先生が刺される瞬間を見るのか・・・。心の中は複雑な気持ちで一杯で・・・本当に刺しに行くのか・・・。とうとう、卒業式は始まり、間違いなく舞台には校長先生が、僕たちに賞状を渡していくではないか。しかし、どこにもF先生の姿は見えない。A君は右側、B君は左側、僕はアッチコッチを見ている。とうとう、1組は全員が賞状をもらい終わり、次は、2組になってきた。「う〜んまだこない。来ては困る」もう頭の中はかきみだされ、心臓は、30cmに肥大しているし・・・。とうとう最後の9組になったが幸いにしてまだ来ていない。そして、最後の一人になってから・・・。かつがれたなぁ〜。と思った。いやはや、退屈させない先生の一言にわれわれはまんまとしてやられたのであったが、今思えば楽しい緊張感のある卒業式だった事に間違いはない。人間の心理をうまく利用した先生の勝ちであった。
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3. 「えっ!!、あと1時間もやるの〜」
超グロテスクな国語のI先生が変わりにくるというので、教室は、以外にも期待感で一杯だった。それもそのはずで、同窓生のオヤジだし、キャラクターが何と言っても抜群というか、面白い顔と言うか・・・。ついにやってきた先生。滑り出しは上々だった。勉強のやり方とか色々教えてくれた。同じ国語の先生でも教え方がこんなにも違うのかと思うと、今までの先生たちの教え方を思い出していた。先生曰く、「勉強のできる生徒は、ノートなんかには書かないんだ、教科書の隅にぎっしり書き込んでいくんです」というのである。思わず教科書を眺めながら「狭いし、書きずらいし、う〜よくわからん」そして、ついに、和やかな雰囲気のままあと数分で授業が終わろうとしていたその時に、爆発はおこったのである。なんと、何かで先生がきれてしまったのです。「会長はだれだ!!」「はい」と、N君がいうと、「次の授業はなんだ」「理科です」「M先生に理由を言ってもう1時間やるからと言って来い」というのである。
そのM先生がそれに同意してしまったからさぁたいへん。地獄の50分授業が始まったのである。今まで笑いもあって面白かった授業が、地獄になるは、10分間の休憩もなかったように記憶している。なんと、その50分間の記憶がまったくないのだ。なんど思い出してもでてこないんです。
話は、まだ続くのだ。その授業が終わってから、息子の教室に、我クラスの元気のいい生徒たち何人かが、2階の教室に行って、「御前のオヤジのせいで・・・」と、文句を言ったら「オヤジと私は関係ありません」と、言ったとか?。それを聞いた私は、1人で笑っていた。その同窓生もいいキャラクターをしているのです。「う〜ん、あいつならそういうかもしれない」と。それ以来、その先生が、私たちの教室に来ることはなかった。
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4. 「敵と思っていたのに意外にも大の仲良し」
ほとんどの生徒から嫌われている担任の先生との付き合いが始まった。不幸にも、2年生から視力が急激に落ちたので、1番前に座ることになった。給食の時間は最悪にも、差し向かいというおまけまでついていた。もちろん、楽しみのひとつである給食も地獄になって、喉を通らない状況である。ところが、何の話からそうなったのかは記憶にないが、意外にも話をすれば、馬があうというか、話が合うというか・・・。そんな先生とは思わなかった。人間は、外見とか、叱られたからとかで人を判断してはいけないという事をつくづく思い知らされたものだった。
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5. 「それは、FERRARI
Dino 246 GTS」
この先生が、いつも大事に持っている物にブリーフケースになんと「フェラーリディノ246GTS」のシールが貼ってあるので,聞いてみると、東京での大学時代から、自動車が好きだったようで、僕も、勉強よりは,自動車の勉強の方が大好きだったので、給食時間は、先生と2人で、自動車の話ばかりだったのだが、他の生徒はその話にはだれも参加せず、この教室は、たった2人しかいないのか。と,言いたくなるくらい。2人意外の話し声はないという給食時間は「異様」そのものであった。
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6. 「お願いだから、ヨーロッパ5ヶ国に行かせて」
実は、1年生の終わりの頃に父が交通事故で即死した。母は離婚していたので、私は自分の父のことなどほとんど記憶にないだから、死亡の話を聞いてもピンとこなかった。でも、母には「人目で言いから、死に顔でもいいから会わせてくれ」とたのんだのだが、当時は、交通の便も悪く、大阪の堺市での事故だったのでいきなり飛んでいくというわけにもいかず・・・というのが理由だったわけだが、あとから考えてみると、母の父に対する憎しみがあったのではないかと思うようになった。それから、死亡保険金が入ってきた当時のお金で150万円であった。そのような大金があるとなると私としては、使う気になんかならなかった。ところが、私にとっての教科書は「自動車雑誌」だったモーターファンの募集で、ヨーロッパ5カ国GPツアーというのがあった。なんと、498000円カメラだパスポートだなんだかんだで全部で100万円くらい。これならヨーロッパ旅行ができるという計算の元、母と先生に相談したら、あっけなく2人とも申し合わせたように却下するのである。金はある。しかし、行かせてもらえない。ストレスになった。理由は簡単、「勉強しろ」と、これもまた、申し合わせたように言うのである。あ〜もうがっかり。
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7. 「数学はABC」
この数学と言うのが算数以来大っ嫌いでほとんどが10点台というありさまでした。3年生になってからなんと、成績順にランクをABCにするというのだ。9クラスを3クラスに分けてその中からABCランクに分ける。
しかし、悩むことはない、Cクラスにきまっているからだ。そして、Cクラスがなんと1クラス単位をオーバーしたのである。そこで先生が、生徒を見回して、「基君はB」というのです。これが恥ずかしくて恥ずかしくて、どうしようもないのです。だって、僕よりもあの子とあの子が成績がいいのはよくわかっていたからです。まぁ〜、まじめな生徒だからいいかと自分で自分に言い聞かせたのであった。ところが、ここで頭に来ることがひとつだけあった。それは、Aクラス担当の先生が、馬鹿なやつでもあの先生に教えてもらえば「わかる」と言われた先生だったのです。その名を、「I先生」なのです。生徒の誰が見ても病弱であることははっきりわかっていました。それから、10数年がたってから、先生が、大和村今里という集落の出身で、なんと、その集落は頭がいい人が多いという話しを耳にしたのです。その集落は、その昔、カツオ漁業の集落で、DHAを多く食べたからではないかという話しを耳にしたのです。単純馬鹿な私は、「それからというもの魚を食べれば頭がよくなる」と思いっきり勘違いし始めたころでした。もちろん、それも要因の一つでしょうが、なんといっても「日々の努力に勝る天才なし」という風に思います。あっそうそう、話しがだいぶ横道にそれましたが、私が頭に来るのは、「Aクラスではなく僕のように頭が悪い生徒を教えて欲しい」と思っていました。
今なら、「だったら、勉強してAクラスになるぞ」というふうに考えるだろうが、やっぱし、勉強が嫌いだったのと金持ち志望の僕にとっては無理だったんでしょうね。
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8.「オッパイが見える。ウヒヒヒヒ」
掃除は、退屈で、だるくて、つまらない時間なのだが、勉強嫌いの僕にとってはまあまあ、楽しい時間のひとつでもあった。勉強しなくていいから・・・。
そんなある日の事、窓拭きと床吹きの掃除当番になった。この窓拭きがまぁ〜退屈でたぶん、新聞紙かなにか雑巾かなにか記憶にないけど吹いていた。窓からは、自宅が見える。時々、集金のおじさんやかあちゃんが歩いているのが見える時がある。右は教室の中、左には自宅(アパート)が見えている。そこへ思いがけないい楽しい時間がやっと来たのである。
それは、ある日の事、窓拭きのお掃除時間の時に、なんとナント、あの子のオッパイが見えるではないか。それもでかい。予想通りか、セーラー服の胸元が甘いので、床吹きの際に、幸いにも下に垂れてしまうので、念願のイヤ。基。思いがけないオッパイがふたつ大きな物が向こうからここにやってくるぅぅぅぅぅぅぅのだ・・・。早速、親切な僕は、相方に教えたら大喜び。ここに来る時にはおおきなオッパイ。ここから向こうに行くときには大きなお尻。それはいいんだけど。あぁぁぁ〜掃除が、窓拭きがががが・・・こんなに楽しく天国なんだだだだなんだなんだ。あ〜っ興奮状態。う〜ん視力が弱いからピンぼけはしているけれども。チキショウ。
ところが、そんな天国の日々はいつまでも続かない。僕のスケベな視線を他の女子生徒が「アァァァァ!!!、胸見てるるるるるる」。「あぁぁぁぁ神様、なんでェェェェ楽しいお掃除の時間」が、「あぁぁぁぁ・・・・・」。あの一言が、地獄の日々へと僕と友達を引きずり、いや、奈落の底へ落とされていく2人の姿が見えていたのだぁ〜。あぁぁぁ〜残念。
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9.「基、カバンの中に入れておくから」
また、2月14日のバレンタインデーの日だ。2年生の時もあの子から貰った。確か、10個近くあったので、友達にもわけて上げられるくらいはある。その日の帰りに、カバンの中を覗いてみると大きめのプレゼントがガバンの真中で堂々としていた。早速、誰もいなくなった教室で、友達にも分けてあげたら「基、いいのかぁ〜」「いいよ、1人で食べきれないし・・・」あれだけのチョコレートの量があると唖然とすることだろう。
彼女の家は「・・・屋」さんだからこれだけの量のチョコレートが頂けるのだ。ウヒヒヒ。彼女から貰うのはいいのだが、こうなると、同じクラスじゃぁないので、話をしたいと言うのが正直なところ。提灯持ちの女の子に、「合わせて欲しい」とリクエストしたところOKだというのだ。約束の日に待ち合わせ場所にいくと、相手は確か、3人の女の子。いよいよ話を、と思ったのだが、彼女が全然話をしようとしない。確か、1時間はいたのだろうか。結果的には何にも話をすることなく、それ以来、彼女とはこの年になるまで、1・2回しか会った事がない。でも、思いでは、美しいもので、今でも、月に、5回くらいはそこを通るのだが、ただ懐かしくて、懐かしくて・・・。と、ここでこの話は終わらないのだ。
実は、後日談があって。あれだけのチョコレートを貰ったので、お返しをしたいので、パイロットの万年筆3000円をプレゼントしたら「こんな高級な万年筆は要らない」と、返されてしまった。いったいお前はどんな女なんだ。と、言いたい。まぁ〜、しかし、当時の僕にとって3000円の万年筆くらいはたいした金額ではなかった。新聞少年の僕の稼ぎは当時約15000円くらいだったもん。
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10.「おい、基、中野良子と島田陽子どっちが好き」
と、突然、女の子4人ほどに囲まれた。「えっっっと・・・、島田陽子」と、答えた瞬間。全員から「サイテイ」の罵声に近い言葉を頭から浴びせられた。いったいなんなんだこれは。「女はねぇ。あんな、島田陽子を選ぶようなやつは嫌いよ」と、いうような話だったと記憶している。早い話が、同姓に持てる女性と異性に持てる女性の話をしていたのだろう。あぁぁぁ怖かった。ついでに、僕の信用も失墜。(笑い)
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11.「バレルのは当たり前」
早い話が、悪い奴がいて、今度のテストで集団カンニングの話が成立したらしいのだ。僕は、そんな話には乗らない。だって、10点くらいしか捕れない生徒が、突然、80点も取ったら、誰だってカンニングしたに決まっている。このバレバレのことをするのだ。だれかが、合図をしてから解答用紙に記入するのだ。後は、想像の通り、先生も笑いながら、「これはこうで、だれが企てて、答えはだれが発信して・・・」だからやめとけって感じ。あぁぁぁいやな感じ。こっちは、勉強を完全に捨てているから。関係ないって感じ。
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