この話は、道徳の時間に形相を変えたというか、あまりにも力が入りすぎという異様な雰囲気だったような気がします。
しかし、残念ながらほとんどこの話は記憶がなく、いくら思い出そうとしても無理でした。この話は、もっとも人間にとってはだいじな部分であることは間違いないのですが。本当に残念です。
2.人の殺し方???先生の授業の時に、国語の先生だから本を読みながら授業を進めるのですが、ある日のこと、文章を読む時には、「、」や「。」のところでは「必ず息継ぎをしなさい」と。
「なるほど・・・」ここからが、面白くなってくるのである。「もしも、殺したい人がいたら、「、」「。」を書いていない手紙を相手に出せばいい。
そうすると相手は、息継ぎをするところがないからそのまま窒息してしまう」と、いうのだ。もちろん、クラス中は大爆笑なのだ。な〜んでか。あまりにも説明がリアルすぎて・・・。
さすがに国語の先生だと思ったことがある。
たぶん、先生お得意の道徳の時間だったと思うのだが、いつになく興奮していた先生が選挙の話をした。その話の中心人物が、故参議院議員宮之原貞光氏〔たぶん名前は間違っていないと思いますが〕の話をするのである。
もちろん、中学生がその政治家の事などわかるはずがない。先生曰く、「地元は地元の人に投票するべきだ」と。当時は、確か、全国区の投票だったのではないかと思いますが、地元の得票が少ないのが先生にとっては納得がいかないのだろう。
宮之原氏は、奄美大島には1市3町3村あり、人口が約8万人なのですが、そのなかの龍郷町というところの出身者で、あの西郷隆盛が島流しにあったところの出身者です。
奄美でも人口の少ない地域にもかかわらず国会議員を多く排出した地域でもあります。今も昔も、自民党支持者が多く、当時は圧倒的な勢力があったのかもしれません。今思えば、憤懣やるかたない状況だったのだろう。
先生は、国語の先生で、授業の際には必ずプリントを配っていました。角ばったような字でわかりやすく独特の字には大きく、僕たちの答えを書くところはかなりのスペースをさいていました。
他の先生はプリントなんか配っていないのに先生は必ず、毎回配っていました。だから、国語の成績も少しはよかったように思います。
ある日のこと、「僕は、君たちをたたかなければならない」、いうのだ。なんの理由で叩かれたのかは記憶にはないが、説明を始めるのである・・・。ここからがたいへんだったのです。
「人間は感情的になって叩くとケガをさせるから笑いながら叩く・・・」と、言って全員を立たせて一人一人を平手で叩き始めたではないか。
とうとう僕の番がきた〜っ。「バシッ」と、軽く叩かれたが痛さの記憶はない。
ところが、細身のS君が吹っ飛んだのです。あれにはビックリしましたよ〜。
しかし、女子は、強いなぁ〜と思いました。
まぁともかく、ニヤニヤしながら一人一人を叩いていくのだからたいしたものだと嫌味抜きに今も思うことがあります。(左の写真は音楽室の右側に生えている、チョウセンアサガオ、ポインセチア、クロトン)
今でもそうなんですが、先生たちの組合のひとつに「日教組」があります。この日教組なるものがいったいなんなのかは大人になってからわかったことなんですが、先生たちの組合運動らしきものが生徒の僕たちにはよくわからないひとつでもありました。
生徒間でもこの話が幾度となくでてくるのです。
さすがの先生も我々がそういった話をしているのを察知したのか、ある日のこと、「僕は社会党だっ!!」というのです。
その瞬間、全員が「社会党」という聞いたことがない単語にビックリしている雰囲気が教室全体に一瞬で広がっていったのです。時々、給料値上げとかいってなんだか記憶にはないのですがそんな話を聴いたことがあります。
しかし、まぁ〜「社会党」には今でも唖然としました。
生徒の頭の中には「共産党」という単語しかないのですから。でも、僕たちは、いったいだれから、どっからその共産党という単語と先生を結び付けたのか今でもわからない。
ある日のこと、なんでそうなったのかはいまだに記憶がないのだが、先生の家に行くことなった。学校から、車が通るとホコリが高く舞い上がる朝仁の旧道を確か30分足らずで歩き、先生の家に着きました。
ビックリしたのは噂どおり、狭い家の中は本だらけでした。
それも今となっては珍しいソーメン箱に入った単行本だけでも何千?冊???あるのだろうか。その横には、予想に反してベッドがあったのです。
子どもながらに先生には似合わないと思った。
そのベッドを見た次の瞬間、枕の後ろにはなんと木刀が置いてあったので、「先生・・・なんで・・・」と、聞くと「寝込みを襲われるから・・・」いったいだれが・・・襲うのだ・・・。
たぶん、先生なりのジョークなのかもしれない。
あっそうそう、エロ本の事ですが、道中、週刊誌が道端に落ちていまして、それを拾って見たところ先生がその本を見た時に、玉玉、ヌード写真のところだったので「エロ本は1人で見ろ」と、言われたのです。
さてさて、それはともかく、夕食はカレーが出てきました。
そのカレーをスプーンでかき混ぜながら食べていると「ソースはいるか・・・」と、聞かれたので、「いいえ」と、答えると、「そうだったら大正時代のカレーの食べ方なんだけど」「えっ大正時代の食べ方ってソースをかけてからかき混ぜながら食べるのかと、わけもわからず感心した物だった???」
8.僕は、喧嘩が弱かったんだ・・・。
「僕は喧嘩がよわかったんだ」。先生は、空手3段ということらしく打たれると「痛い!!」ということが常に頭の中をよぎるのである。
その先生がいうには、「僕は、いじめられたりしたから、空手を習い始めたんだ」。
先生の小指は、曲がっていたのです。
これは、腕立てふせの時に、小指でやって指を折ったのだ・・・」というふうな話をしていました。
この後の話は記憶にない。残念。
ある日の、ホームルームの時間に先生は、教室に入るなりいきなりベルトを2秒で腰から抜いて(これは、神業)机に一発叩き付け「てめぇ〜ら、今度の試験で最下位〔9クラス〕だったら一人一人ひっぱたいてやるからなぁ〜」それもそのはずで、テストの時には我がクラスは、9クラス中9位ですから先生としても何とかしようと考えたのではないでしょうか。
もちろん、全員の脳裏には「空手3段」がよぎっていたのは確かだったと思います。ご多分に漏れず私も勉強をしました。そのかいあって、確か、6位か3位になりました。
ちなみに、運動会の時の順位は確か3位か1位だったと記憶しています。
ところが、問題はここから始まったのです。
年末の試験では先生はなにも言いませんでした。その結果、また、最下位に後戻りをしてしまいました。
先生曰く「人間なんてそんなもんだよ。叩くと言えば、勉強をするけどそうでなければ勉強なんかしない・・・・・・」教室の中は重苦しい空気が漂う状況で教室から自宅までたったの1分たらずの帰り道があまりにも遠かったのを今でも思い出すことがあります。
道徳の時間がいつも楽しみにしていた。そんなある日のこと、干支の話しの中で各動物の絵を描いてから、この年に生まれた人は、こういう性格などと詳しく説明してくれた。
まぁ〜この絵が、上手でして、今にも動き出そうとしているではないか。
さて、1番分かりやすかったのが、鳥年の人のことである。
鳥年には2通りいて、内側にかく人と、外に散らかす人の2通りというのである。これは、中学生の僕でもよく分かる。
僕の場合には、イノシシ年なのでそのまんま真っ直ぐに進んでいくという事もよくよく理解できるのである。それから、どれくらいの時間がたったのかはまったく記憶がないのだが、墨絵というんでしょうか、墨汁と筆で書く、パパイアの絵はなんともいえないくらいの美しさで、先生が美術まで教えているとは2年生になってから知ることになった。
今日の給食は、カレーでした。給食係が全員に配り終わったころに、女子生徒が先生に「先生、ごめんなさい先生のためだけスプーンが足りないので今から取りに言ってきますので待っててください」普通なら、「ごめんね取って来てね」というのが一般的な会話のはずが、「いいのよ〜、インド人は手で食べているんだから〜」と、言った瞬間先生は、いきなり指で食べ始めたではないか・・・・・。
しかし、そのカレーは間違いなく熱いのである。
そうは言ったもののあとにはひけずにアッチチといいながら熱いカレーを食べているわけだが、先生がインド人でもあるまいにうまくいくはずがない。
確か、3・4回挑戦してからとっとと教室を出て行ってしまいました。あのときの先生の顔を今でもはっきり覚えています。
そして、先生が、その後どこに行ったのか気になったのでカレーをかきこんでから教室を飛び出してみると、今度は、全く違った事をやっているではないか。
「インド人は、カレーを手で食べるんだよ」と言った先生は、カレーをほとんど食べることなく教室から出て行った。そして、ある記念碑〔なんの記念碑なのかは今だにわからず〕に腰掛けて、今度は、スミレを食べているではないか・・・・・。それを見ていた僕に「基君も食べる・・・」と聞いてくるのだ。
実は、小学5年生の時に食べたことがあるものだから、あんな物食って・・・・・。と、軽蔑もした。
ところが、面白いことはここから始まるのです。
給食時間とは言え、歩いている生徒もいるわけですが、女子生徒に、ニヤニヤしながら「***さ〜ん、ブラジャーきつい」と、いうのです。
それだけならともかく、愛用のいや護身用とでも言えばいいのか、例のベルトを腰から抜いて自分の胸にベルトを締めてから胸を突き出すようにして言うからこれがまたリアルなのです。
嫌がる生徒もいましたが、冗談の聞く生徒はうまく先生をかわしていたような記憶があります。
小学6年生のころから母に、「俺を勝手に生みやがって・・・」と、言っていた時期がありました。先生の道徳の時間はたいへん面白く、また、何を言っているのかわからないこともありました。
そのなある日の道徳の時間に先生は、「君たちは、親に、勝手に生みやがって・・・と、いっているだろう」ギクッ!!。なんで僕の家のことまでわかるの・・・と、思った。
さて、先生曰く、「君たちがこの世に生まれて来たのは、君たちが承諾して生まれてきたんだよ」と、いうのです。
「君たちが生まれる前に、君たちは神様の前で、自分の人生のすべてを書いた本を見せられてそれでいいですと納得してから君たちが生まれたんだよ、なにも親が悪いんじゃあなくて、君たちが悪いのだ」という。
「親に勝手に生みやがってなんて言ってはいけない」この話は、興味のある話であった。まるで、僕が母ちゃんに言っていることを知っていてそういった話をしたのではないかと・・・思う時があった。
早速、母にこの話をしたら、母は喜んでいた。
この日以来、この年になるまでそんなことを母に言ったことは一度もない。
今でも学校で問題になっているのが、体罰の問題である。この件に関しては、色々な考え方があるだろうが、当時からも問題があったのではないでしょうか。中学生の僕たちにはそんなことはあまりわかりませんでした。
そんなある日のこと、先生は、「君たちは、先生が生徒を叩くということでいやな思いをしているかもしれないが、先生にとっては君たちから言葉の暴力を受けているのだ」というのです。「えっ!!言葉の暴力」初めて聞く単語であった。
先生は生徒をたたくし、生徒は、先生の悪口は当然で・・・。人間対人間の事なので異論もあるだろうが、「言葉の暴力」というのがあるんだということがわかった分だけでもありがたい。しかし、その話をしている時の先生の顔は先生らしくなく、一年間の付き合いの中で一番暗い顔だったように思います。
「この矛は、どんな盾をも通す矛です」と、言って売っている商人がいます。その隣には「この盾は、どんな矛をも通すことはない」と言って売っている商人が中国にいたんだ。
じゃあその、どんな盾をも通す矛とどんな矛をも通すことのない盾を戦わせたらいったいどうなると思う。??????「う〜ん僕らにはわからない」たぶん、先生自身の人生の中で、この世の中の色々な矛盾とぶつかりあってきたのでしょう。なんとなく異常なほどの熱気を感じたほどですから。
いったい何の話・・・?、5時を過ぎて行っても職員室には先生がいるし・・・・。ある日の5時過ぎの事、何の用事で職員室に行ったのかは記憶にありませんが、先生とFY先生が紙包みのビンから湯飲みじゃ碗に黄色い粟が少し出るようなジュースを飲んでいるのです。まるで酒でも飲んでいるかのように。
「FY先生どうぞ・・・」「あっすみません・・・」、ともかく美味しそうなジュースを自分たちだけで飲んでいるのです。
後日わかったのだが、なんと中身はキリンビールで、職員室なものだから紙袋に包んでだれにもわからないつもりで飲んでいたのである。(そんなはずはない・笑い)だから、あそこは、職員室じゃあないのか・・・。
たぶん、5時までが終業時間という意味なのだろう。
最初の写真では、確認できないのですが円形校舎(オッパイ校舎)の2階には鉄製のフェンスがあったのですが、当時かもっと強い物にしてほしいような言い方を先生はしていました。
日本は、そんなことを言っても改善しないんだ。誰かが死んで始めてどうしようかと・・・。
問題がでてから考えるのだと。幸いここから落ちた人がいるとは聞いていないが。
道徳の時間がいつも面白かった。もちろん、中学1年生のレベルでわかる話などあまりないのだが、時々、熱の入る先生に子どもながら何かを感じていました。
そんなある日のこと、戦争の話になって・・・・「天皇陛下万歳と言って死んだ兵隊はいないんだ」というのである。いったい何の話だ・・・・・・。
「第二次世界大戦で死んだ兵隊は、皆、お母さん!!と言って死んでいったんだ」。なんだか自分が見てきたみたいな話だった。
例のオッパイ校舎なんですが、オッパイとオッパイの間には、購買部がありました。先生曰く、あそこは秘密地下組織なんだ????」いったいなにそれ???。何度となく聞いたことがあるのです。
今思えばあれのことかなぁ〜とか色々考えてもみるのだがいまだに分からない。秘密地下組織というくらいだから地下室があるらしいのだが誰も信じていない(笑い)(左の写真はオッパイ校舎と秘密地下組織と先生が言っていた購買部跡・右)
21.「男はチンチンを隠すけど、女はオッパイを隠すんだ」
うまく書けないのですが、ナチスのホロコーストだったでしょうか。
毒ガスで殺すときに、裸で部屋に行くところの写真を見て言っていたのでしょうね。
つまり、私達は観たことがなかったのですが、先生は、その写真を見て、ガス室というのでしょうか、歩いてる全裸の女性がオッパイを押さえていたのでしょうね?。
正確には思い出せないです。
22.パンはちぎってから食べるんだ。
給食の時間ではないのですが、パンの食べ方の話になりまして、先生は、「パンはちぎって食べるんだぁ」というのです。
なぜかというと、「昔、外国で、そのパンに爆弾を入れて暗殺をしたんだ」。
これには、もちろん、教室からはブーイングの嵐なのだ。そんなはずがあるものか〜。「どうやってパンに爆弾をいれるんだぁ」とだれもが思ったはずである。だから、パンはちぎって食べれば、君たちも爆弾が爆発しなくて死なずにすむのだというのである。
もちろん、バナナもそうらしいのだが、ここまでくると、あきれ果ててしまうが、馬バカ鹿しくて・・・。でも、面白いかなぁ。
「じゃあ、あそこの毛は」とだれかが聞くと先生もそこまでは、考えていなかったようで、顔を真っ赤にして「あれっ!?」答え様がなく、当人が苦笑してどうする。先生。これに関しては、我々生徒の勝ちであった。
先生は国語の先生だから僕たちは相変わらずの授業で楽しいのである。
そして、今日は、漢字の覚え方の時間になった。まず、「努力」と言う字は、女の又に力・・・。これは、だれが考えても分かる話だが、僕たちには充分面白い話だ。
次に、「尋ねる」という漢字なのですが、これは、「ヨー。エロ話をちょっと(寸)しよう」と覚える。
「珍しい」という漢字は、王様の又に毛が生えているから珍しいんだ。ついにきました母と言う漢字についてである。「母という漢字の中は点々になっているんだ。
ところが、海という漢字は、点々がないんだ。なぜかというと、母には、オッパイがあるから点々になっているのだ。海にはないだろう。オッパイが・・・。」これは分かりやすい話だ。
こんな授業だから勉強をしない生徒の方がおかしいのである。
25.「天皇陛下(昭和天皇)は、ウンコをしないんだ」
これには、全員がブーイングでした(笑)。話しの内容は忘れた(笑)。
26.ハイハイ、男は出て行きなさい。チンチン臭いから〜。
先生の国語の授業が終わった。次の瞬間、先生は「ハイハイ、男は出て行きなさい」と言って我々男子を追い出すのである。次の授業は体育の時間なんですが、当時は、もちろん、更衣室なんていう気のきいた部屋なんかあるわけもなく・・・。
先生は、自分がちゃんと囲って着替えが見えないようにしてやる・・・という考え方のようだったのですが。
そのニヤニヤした言い方が、女子生徒たちには、顰蹙をかったり、以外に受けたり・・・。
本当に退屈なんかしないものだった。
27.パンツは毎日履き替えるんだ。
何の授業だったのか道徳の時間だったのかは定かではないのですが、ともかく、下着は毎日綺麗な物を履き替えなさいと行っていたように記憶しています。
ところがね当時の僕は、2・3日に1回しか履き替えなかったのです。
新聞配達をしていたので同級生よりも金回りは良かったのですが、なぜか、下着だけは、2・3日に履き替えていたのでどうしようか困ってしまったことを覚えています。
28.ガムを噛むと歯磨きしなくていいんだ。
なんの時間かはすっかり忘れているのだが、ガムの話が出てきたのである。「ガムを噛むと歯磨きと同じなんだ」という先生に感化されて、早速、その日から何日間かはガムを噛む毎日が続いた。
毎日ちゃんと、歯磨きをしているのだが・・・。本当にガムを噛むと歯磨きと同じなんだろうかと不思議に思っていてそれからいつのまにかガムもかわなくなっていった。
29.六法全書は恐ろしい本。
先生の過去になにがあったのかは分からないが、受け持たれた1年間の間に何度となく裁判官や六法全書のことが話に出てくるのである。
もちろん、六法全書なんていったいなんの本なのか分かるはずがないのである。先生曰く、「恐ろしい本だ」という意味ありげな言い方だけが記憶に残っている。では、早速、その六法全書というのを買ってこようとその日に楠田書店に買いに行ったのであるが、店員さんがビックリして「ないです」というのである。
しかし、「小六法はあるよ」というのである。今の金額で3,800円くらいだろうか。当時の私は、現在のお金に換算して2・3万円くらい新聞配達で稼いでいたのでそれくらいのお金なんかには不自由なんかしていなかった。
学費から全部自分で稼いでいたのだ。
それはともかく、家に帰ってから、パラパラっとみてみるとなんとそこには、漢字とカタカナしかかいていないではないか。
いったいこの本のどこが恐いのか・・・。
それから何年もしたてから六法全書をみてみたらまったく同じ状態であった。う〜んこんなのわからん!!。
「僕はねぇ、犬とか猫が満腹に食べるのかと思ったら人間が満腹に食べるんだ」と話し始めた。一体何の話なんだろうか。腹一杯食べてどこが悪いのだろうか。
この後の話は記憶にはないが、早い話が、腹八分にしなさいということなんだろう。
「僕は成績が悪かったんだ・・・!!」という先生。色々な人生を確か話したと想像している。そんなある日のことである。先生は、自分の通知表を僕たちに見せてくれた。「僕の家は、昔、火事に遭ったんだ、だから、通知表もこんなになったんだ」と言って皆に見せてくれた。
その通知表の半分近くが焼けていて、よくも現場から探してきた物だと感心していました。
そして、次の瞬間「あっっっこの通知表、金久中学校の通知表・・・・」と、見抜いた生徒がいたのだ。まぁ〜この先生、ご親切にも、我々に勉強させようと巧妙に仕組んだ細工ではあった。が、いとも簡単にばれてしまったのだ。
でも、今でもありがたいと思うと同時に、思い出しては笑う、笑う。
ある日のこと、運悪く、友達とじゃれあっているうちに、右腕か左腕かはすっかり忘れてしまったが、肘で、ガラスを割ってしまったのです。血が止まらずにいたものですから、保健室の同郷のの綺麗な先生が、病院まで引率してくれました。
そこまでは、よかったのですが。
当時、「反省文」とかいうわけのわからんものがありまして、反省文を書いてこいというのです。
素直に、書いて持っていったのはいいのだが、F先生はなんと、5mmの幅の線を引いてこの紙(縦が10cmちょっとで、横が8cmくらいだったでしょうか)いっぱいに書いて来いというのです。
早速、帰ってから書いたのですが、どうも5mmの幅では書けないので、次の日に、「先生、小さすぎてかけません・・・」というと「鉛筆を書けるように削ってから書いて来い」というのです。
挑戦してみたのですがジェンジェン書けマッシェン。
おまけに、どうやって書けばいいのかがもっとわからなかった。
その後のことは、記憶にありません。
それから、例の道徳の時間だったと思うのですが、人間は、「反省をしなければいけないのだと」力説するのです。
「ガラスを割ったりとかしたら・・・」「あ〜僕のことを引き合いに出すなぁ」って感じでした。まぁともかく、色々な人生の中では、反省も大事なんだということは、特に30代になってからわかるようになってきた。
先生は独特の筆跡の持ち主で、カクカクした字を書くものだから、僕たちには、なじみやすい字ではあった。そんな、ある日のこと、なんとあの万年筆は、中国製だというのだ。だれが言ったはしらないが。
その当時の万年筆は、今のようなカートリッジ方式ではなく、今では懐かしい、スポイト式なのです。
その中国製等万年筆を、僕は、「性能がいいのだ」と、勘違いをしてしまったのだ。先生が使っているからいい万年筆だと思い込んでしまったのだ。そして、それが、災いになっていくのであった。
偶然というか、仕組まれたのかは記憶にもないが、なぜかしらそのころ、学校の近くで、万年筆を売っている叔父さんが要るではないか。
先生とまったく同じ万年筆を並べて売っているものだから、欲しくて欲しくて、たまった物ではなかった。
次の瞬間、家へ10秒足らずで走っていき、引出しから出したお金の金額は忘れたが、そこそこいい金ではあったに違いない。早速、その万年筆を買ったのだった。
これが、勉強を捨てて財閥の道を歩き始めた私だから、たかが何千円の金なんか惜しくとも何ともないのがだれよりも強みではあった。しかし、がつくのだ。ほとんど使ってもいないのに・・・だれかに盗まれてしまったのだ・・・。それから、あの万年筆はたいした物ではなかったことを知った時に呆然としたものだった。
それから、約2年後のバレンタインデーのお返しに、当時3,000円もしたパイロットの万年筆を送ったら、ビックリされちゃって・・・彼女とはほとんど口を聞くことなく漠然というか無味乾燥な淡い恋らしき思いは・・・・。あ〜っ!!万年筆とは、全然、円も、縁もない中学生時代ではあった。
これはもちろん、国語の授業の時だったんですが。国語辞典によって同じ言葉でも意味が違うというのです。いったいこの先生何を言っているのか・・・。
日本語なのに・・・。と、思ったことがある。
それでは、早速、下校してから、アルバイト財閥の私は、また、楠田書店に走って多分3冊くらいの国語辞典を買い込んだのだ。
そこまではよかったのだが、いかんせん勉強する習慣が全くなかったので何度かパラパラめくってからそのまま本棚らしきところにお行儀よく並んでいました。
それから、数年してから、弟が「なんで同じような辞典があるの」と聞かれたので今のような話をしたらあきれ返っていたが、「これは御前にあげる」で解決した。しかし、この年になるまで、本当にそうなのかは定かではないが国語の先生が言うのだから間違いないのだろう。
なんの授業の時にこの話が出たかは定かではないが、「水もご飯と同じように噛んでのむんだと」言われた時にはブーイングであった。
なんで水を噛んで飲まなければいけないのかというのが僕たちの考え方だった。まぁ〜ともかく、皆さんも1度試してみてください。
たぶん、道徳の時間だったと思うのですが、話は、赤ちゃんの話になりまして。先生曰く、「生まれたばかりの赤ちゃんには、神様はすごいパワーを与えているんだ。
片手に鉄棒を持たせてから持ち上げると、赤ちゃんは自分の身体を同時に持ち上げるのだ」というのです。馬バカ鹿しい話は大好きなんですが、ここまで馬バカ鹿しくなるとあきれ返ってしまうのです。なぜ、赤ちゃんが、自分の身体を宙に浮かせるような事ができるのか・・・。
そんなことができるはずがないではないか・・・もう〜そんな話が、1番信じられないし、今までを先生を尊敬していたのに・・・???。しかし、それから、約11年後にNHKのテレビで鈴木健二アナウンサーがそのような話を始めたではないか・・・。
「えっ!!。あの時の話と同じ話をしているではないか・・・。えっっっっっ!!!!???。
本当に赤ちゃんは自分自身の身体を鉄棒一本で宙に浮いているようなパワーがあったのか????」いやはや、あれには、ビックリした。真実の話を先生はしてくれたのだ。
38.全員、竹刀でお尻を叩かれる
全員が、円形校舎にに出されて、全員が叩かれたが、理由は記憶にない。
39.下敷きであおぐな。
真夏でなくともここ奄美大島は熱いのです。そんなある日のこと、授業中にほとんどの生徒が下敷きで団扇代わりにパタパタとあおいでいるから先生としてもいらいらしたのだろう。これは、ちょっと、まじぎれしていましたが、「下敷きで仰ぐな」と、激怒したのです。次の瞬間「下敷きを目の前に立てて、自分が左右に首を振ればいいのだ・・・」というのである。
もちろん、先生が見本を見せるのだが、当の先生が赤くなってクラクラしているではないか・・・。まぁ〜説得力のないこと。しかし、やってみると、想像通り、頭がどうにかなりそう。
この問題は、色々と僕たち生徒の中でも議論をしたところなんですが、先生曰く、耳の所は、焼いているので栄養があるというのです。しかし、ほとんどの生徒はなっとくしていない。
給食の時間が、勉強嫌いの私にとっては楽しいひと時でもあった。給食室にパンを取りに行くと、焼きたてのパンとそうでないパンとがはっきりわかるのです。誰も彼もが、焼きたてのパンの日には大喜びをしているのでした。
そうした、我々を見ていた先生は曰く、「パンは1日たったパンが美味しいんだぁ〜」というから生徒の顰蹙を買ってしまったのだ。
あの焼きたてのパンの香りとかフワフワなところをガブッと食べるとなんともいえない美味しさがあるのです。ところが、1日たったパンはあまりの冷たさを感じると共に、なんだか味気ない味が淋しく感じるのである。
今日から、待ちに待ったF先生の授業が始まる日です。授業の前に、時間割の説明があったのですが、月曜日の1時間目が道徳の時間だったのです。
そこで、先生が、「道徳は、着物の脱ぎ方なんだ〜?」とわけのわからん事を言い出したかと思うと、「着物の帯をどうとくか」と、洒落というか駄洒落できたのであった。これには、生徒一同はどういう反応をしていいのかわからなかった事をよく覚えています。
先生は、君たちが死ぬまでに2冊の本を読みなさいというのであった。まず、その1冊が「聖書」であった。当時の私としてはいったいなんの本なのか全然検討がつかなかったのだ。
そして、2冊目の本がトルストイの「戦争と平和」というのである。トルストイはかろうじて、小学校の時に、イワンの馬鹿を読んだことがあったのでわかっていたが、戦争と平和だけはまったくしらなかった。
2冊とも、その理由を言っていたのだが、これ以上の記憶はない。
■戦争と平和
(まんがで読破)
■戦争と平和〈1〉
(新潮文庫)
■戦争と平和
(2) (新潮文庫)
●日本人最初のロシア文学者は、奄美大島加計呂麻島・芝出身の昇曙夢(のぼりしょうむ)
さて、残念ながらこの2冊の共通点があまりにも長すぎる本であるということです。何度か挑戦してみたのですが、本屋さんでパラパラで終わってしまうのです。まだ、死ぬまでには時間があると思うので挑戦はしてみますが。
確か、突然だったと思うのだが、漢字の書き取りテストをすると言うのだ。これには全員がブーイングの嵐なのだぁぁぁ。
それで、話が終わるのならともかく、なんと「全員が100点をとるまでやる」というのだ。おいおい冗談じゃあないよっ!!。
いつまで続くのかと思うとゾットした。
いかんせん、我がクラスは学年で最下位の成績なので・・・それを思うと絶望的になったのです。
はっきりした記憶はないが、何度か同じ漢字の書き取りテストをやったことは覚えているが、全員が100点とるまでやったかは記憶にない。
同じ事を100点とるまで頑張ってみること、同じ事を100回やってみることを大人になってから理解し、仕事に役立てる事にした。
ちょっと横道に入って、M先生に登場してもらうことにします。
この先生のニックネームは「カマキリ」。ガリガリに痩せているのだ。担当は社会科の先生である。誰が見ても、超個性的で面白そうなのだが・・・。甘かったというか。
さて、皆さんも経験があるかと思いますが、担任の先生とか、担当の先生がなにかの都合で休む時があったことを経験されてることと思います。
社会科のS先生が休んだので、なんとM先生がくるという情報が入っていたので・・・教室では期待感が高まる一方なのだ・・・。ところがであるここからがたいへんな50分間を体験しなけばならないのである。
教室に入ってきたのはいいのだが、授業を始める様子は全く無いのである。それはそれでいいのだが・・・。
なんと、先生の目の前にいた、K君を手招きしたつぎの瞬間、鉛筆削り器の鉛筆を固定させる部分と言えばいいのだろうかそれを引っ張ってから「レバーを回して、戻らないようにしろ」というのである。もちろん、できるはずが無い。構造上無理なのだから。
そこで先生曰く、できなかったという事で、「手のひらを机に強く叩きつけて飛び上がれ」正直に、K君がやったのはいいのだが、M先生は、「弱い」といって怒るのである。冷静に。迷惑千番なのはK君なのである。なんと、こんなことばかりだけで、50分間が過ぎ去っていったように記憶しています。
この先生、誰が見ても頭が良さそうには見える。間違いなく。山口県萩市の出身という事だったのだが、当時は、あまりピンと来なかった。ともかくともかく、酒が大好きのようなのです。
学校の近くに富川商店があってそこでは、時々、気のあった先生たちだけで飲んでいたようなのだが・・・。
この先生に関しては、子どもの名前が変わっているとか、給料のほとんどが酒代と本代で消えていくとか。
そして、ある日のこと。私の郷里は、奄美大島から船で約7時間くらいの所にある与論島なんですが、学割をもらいに職員室に行ったのはいいのだが行列がすごいのだ。
我慢して並んでいるとあまりにも暇なので・・・あっちキョロキョロ、こっちキョロキョロしてから、あと2人という時になにげなく先生の字はどんな字を書くのか興味があったので除きこんだ次の瞬間「わぁ〜綺麗・・・」と口をついて出てきた、次の瞬間「だれだっぁっ」なんと、目の前にいた先輩が「コイツです」というジェスチャーをするので「しまった・・・なにを言われるのだろうか」と思った次の瞬間、先生は「君が先」と言って目の前の2人を飛び越して私の学割を先に書いてくれたのである。
あ〜ぁハラハラドキドキしました。だって、前の2人は先輩なんだもん。ともかく、今の今まで、あんなに綺麗な字を書く人を見たことがなかったのです。
学校では、色々な教科があるわけですが、勉強のできない私にとっては最大の点数稼ぎの教科が社会科でした。
この時間だけは勉強嫌いの私も真剣勝負でした。幸いにして、独特の先生で勉強は面白かったことを覚えています。
細身で、髪の毛はフサフサ、歩く姿はちょっと急ぎ足で僕たちの目から見てもちょっと変わっている先生には充分に見えた。
授業内容はすっかり忘れてしまいましたが、悪い頭には以外にもスムーズにというか自然体で先生の話が毛根から脳に浸透していくような記憶がある。
S先生の口癖が「あ〜それなのに、あ〜それなのに」が口癖でした。
ところが、ある日のことであった。一番後ろにいた生徒がそのS先生の感に触ったのかいきなり黒板のところから後ろまですっ飛んでいったつぎの瞬間、その生徒はボコボコに先生に殴られてしまったのである。即効性と言えばいいのか、いい意味でも、悪い意味でも、我々のクラスの全員におおきなショックを与えたのである。
また、別の日だったのだが、先生が生徒を殴ったからといって訴えたかったら訴えてもいい・・・。というのだが、僕たちにとってはその「訴えていい」という意味が全然わからなかった。
そして、ある日のこと、先生の授業の時にいつもの口癖のタイミングを僕たちが分かったときに、先手を打って「あ〜それなのに、あ〜それなのに」というと、少し先生がムッ!!としていた。
学校というと色々な思い出がありますが、なんといっても好きな先生と嫌いな先生が思い出になっています。その中でも、ダントツで嫌われている体育の先生がいまして・・・。皆その先生が嫌いなのです。たぶん、「いちいちうるさい」という受け止めたになっていたのでしょう。
上記、32.「反省しなさい」のところでガラスを割った話をしましたが、そのガラスを入れてくれたのがその先生でした。その時に、先生と色々な話をしながらガラスを切ってから窓枠に入れるまでの行程を教えてくれたのですが、「意外といい先生かなぁ〜」と、思ったことがあります。
もっといい先生だっと思ったのが、なんと、1学期は、体育の通知表で「5」をもらったのだ。(これは体力測定全般がよかったためだと思います)それでも、余り好きになれなかったのです。そして、それから、運命の日がやってくるとはその頃は創造もしていませんでした。
■中学2年生の頃
■中学3年生の頃
金久中学校18回卒業生・基武雄
その当時の思い出がありましたらメールかFAXで、お願い致します。
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