基武雄の人生劇場

プロフィールについて

私のプロフィール(自分史)を公開しているのは、借金返済で苦労及び苦しんでいる方々に少しでも参考になればと思い掲載したています。

時々、「観光ガイドとは関係ないではないか」ということを耳にしますが、『奄美大島観光ガイド』という会社の経営者ですから掲載しています。と、言うのも、詐欺に関する報道が多いようです。

これからの会社は、少なくとも代表者は、下記のような自分史的な内容を掲載しなければ信用されない時代に入っているのです。

この先駆けとして、このような掲載をしています。

昭和34年4月バカ日に鹿児島県大島郡与論島(鹿児島県で最南端の島)で生まれました。

酒乱の父に愛想をつかした母が21歳の頃に、生後10ヶ月の私を抱いて、あけぼの丸(当時は大島運輸)に乗船したら幸いなことに従兄弟が事務長で、「どこに行くのか・・・。」と尋ねられ、母ちゃんは、なるべく与論島から遠いところに行きたい思いがあり「鹿児島・・・。」と言ったそうです。

しかし今も昔も船よりも電報のほうが早く母ちゃんが隠れて乗船してもバレバレ。

そして、あけぼの丸(500トンの貨客船)は名瀬港に入港しました。狭すぎる貨客船の中です。母ちゃんの従兄弟の旦那さんが母ちゃんから私を取り上げて「降りるよ・・・。」と母ちゃんに声をかけながら下船しました。

ここから奄美大島というよりも奄美群島で最大の街である名瀬市で、昭和35年から暮らすようになりました。

小中学校時代は、特に目立つことなく勉強(小学六年生から初めた南海日日新聞の配達や発送業務が楽しかったんです)はできませんでしたがまじめな子供でした。

基 武雄を知るためのキーワード

1959年(昭和34年)4月1日 / 鹿児島県与論島(鹿児島県の最南端)出身

鹿児島県与論島 / 血液型A型 / 近眼 / 牡羊座 / 長男 / 未婚 / 170cm・65キロ / ダイエット中(病気ではないが健康の為) / ハゲ頭(しかし産毛ではあるが髪の毛が生えてきた) / 伊津部小学校 / 名瀬小学校 / 金久中学校 / 日本放送協会学園高等学校(NHK学園)卒業 / アンチ巨人 /  Macintosh (今は、ウィンドーズ7 ) / 中森明菜 / 中型車 / 八尾徳洲会総合病院 / マンハッタントランスファー / 竹中直人 / アサヒビール・ニッカウィスキー / 黒糖焼酎 / 徳田虎雄 / オリンパス光学工業創業者 / ピンクフロイド / 仮面ライダー / UCC / ドクタースランプあられちゃん / フェアレディーZ432(2006年1月に、東京銀座の日産ギャラリーに展示されていた) / スカイラインGT-R(箱形) / よしだたくろう / 入院経験なし / 財× / 全日空 / YS-11 / 田中一村 / AppleⅡe

小学生時代

小学校は、伊津部小学校に入学して3年生の時に、永田町から井根町に引越しをしたので名瀬小学校に転校しました。

永田町に住んでいました。
小学1年生は、小浜町にある伊津部小学校へ歩いて行きました。
ランドセルを背負って。
思い出は、港町から小浜町に渡る橋を渡り、左側には須部製材所の列車のような木材を切る鋸が面白くて行ったり来たり。
また、現在の窪田タイヤの向かいには、馬の蹄を取り替える場所。糞が臭い(笑)。
時には、崖崩れがあり、大人の人が交通整理をしていた。

音楽の時間には全員がオルガンでの勉強。プールもあった。
担任の先生は、眼鏡を掛けた岩切先生(女性)。
まさか、名瀬小学校に転校してから5年生の担任の先生も岩切先生。
夫婦だったのです。

そして、ここで初恋の人に合うのですが、

小学3年生の時には別の人を初恋の人と思い、45歳の時に初恋の人が違うことに気がつく。
彼女のうちに遊びに行ったことを今でも忘れられないが、どうして行ったのかは記憶に無い。
彼女は覚えていた。はず。

金久中学校では1年生の時に、同じクラス。
これも何かの縁だったのだろうが、怖くて言えなかった・・・。

小学2年生の担任の先生は、女性で綺麗な浜田先生。
実家は蒟蒻屋さん。
雲を富士山の上に書いたら、「雲は下にあるのよ。」と言われ意味不明だった(笑)。

そして、小学3年生のある日のこと、沖縄からの転校生が1人やってきました。とっても可愛い子でした。
その男子こそ、一世風靡したフィンガー5の三男である玉元正男君でした。
幸いにして同じクラスでしたし、近所だったのでいつも遊んでばかりいました。

さすがに通知表の音楽ではもちろん「5」なのです。
当時の私は、音楽で「5」を取ること自体信じられないことだったのです。

そして、4年生の時はそのまま持ち上がりでまた同じクラスでした。

それから何ヵ月後のこと芸能界というなんだか訳がわからないのですが、
東京へ行くということらしいので、体育館でお別れコンサートがありました。

初めてみる楽器に目を白黒させながら生まれて始めてのコンサートでした。
どういった曲を演奏したのかはまったく記憶にありません。

そして、彼と同等に出世した人はまだ現れていないのです。

昭和46年3月名瀬小学校卒

新聞配達こそ、我が人生

さて、転機がおとずれたのが、なんと小学6年生のころでして、当時のラジオ体操はカードに印鑑を打つ係りという人がいまして、なんと、私が選ばれたのはいいのですが、実は、何度か遅刻ならともかく、起きれなくて、下級生たちが家に押しかけることがありました。
そういった自分の事はさておき、ラジオ体操をしている向こうで、先輩が新聞配達をしているではありませんか、「う~ん、新聞配達が面白そうだなぁ~・・・」。

そして、母ちゃんに相談したところ、雷のごとく叱られました。
もちろん、理由は、記述の通りです。

ここで母ちゃんが、「6時半にも起きれない人が5時に起きれるわけがないでしょっ・・・・〔まだ、怒られている最中です・・・・・〕が、しかし、なのです。

我がままという性格を生かして、早速、はじめたはいいが、自転車もろくに乗れないし、今でも記憶がないのですが、一体誰の自転車だったのか、今だに思い出せません。

ところが、「やればできる」とは、よく言ったもので、なんと、意外にもスムーズに乗れるんですよ。それも金久中学校の校庭で・・・。

いつまでも他人様の自転車は乗られないということで母ちゃんと二人で内山商事に行きました。

いくらしたのかわかりませんが、早速乗って走ろうとしたのですがフラフラ。
方向指示器付きのサイクリング車を買い、朝っぱらその電球のまぶしいこと・・・。
小学生の僕はもう~嬉しくて・・・
そこで、中学1年生の時に勉強を捨てて、目標「財閥」の道を歩むことにしました。

しかし、この中学生レベルの「財閥」になるには勉強をする必要はない。という判断が、まずは30歳までの紆余曲折と暗中模索の洞窟へ迷い込んだ最大の判断ミスであることを知る由もない。

そのかいあって、高校入試も見事に「不合格」で、
「これからの人生は勉強なんかしなくてもいい」という人生をおくるのかと思うと、思わず体から「し・あ・わ・せ?」が込み上げてくるではないですか。

まっ勉強ほど邪魔な物はなかった。思い出せば中学校2年生の時に少しだけ勉強して60人抜きをしたのに(笑)。


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