田中一村の年譜
1908年 (明治41年) |
栃木県下都賀郡栃木町に生まれる。6人兄弟の長男。本名は孝。 父・彌吉は彫刻家。 |
1921年 (大正10年) | 東京・芝の芝中学校に入学。南画(p1317より抜粋)を制作。 |
1925年 (大正14年) | 美術界が注目。田中米邨(たなかべいそん)にの名で「全国美術家名鑑」(大正15年版)掲載される。 |
1926年
(大正15年) 4月 |
4月 東京美術学校(現・東京芸大)日本画科に入学。同期に東山新吉(後の東山魁夷)や橋本明治
、加藤栄三、山田申吾ら。6月、退学。 12月東京京橋で「田中米邨画伯賛奨会」。 |
1938年 (昭和13年) | 千葉市千葉寺に移り住む。祖母、姉、妹の4人暮らし。 |
1943年 (昭和18年) | 体調を崩し、約2年間闘病生活。 |
1947年 (昭和22年) | 画号を「田中一村」に改める。第19回青龍展で「白い花」入選。 |
1948年 (昭和23年) | 第20回青龍展に「秋晴れ」と「波」を出品。 「波」は入選、「秋晴れ」は落選。 |
1955年 (昭和30年) | 四国・九州にスケッチ旅行。 |
1958年
(昭和33年) 12月 |
名瀬市柳町の梅乃屋に下宿。翌年、同市有屋の奄美和光園の官舎(小笠原医師との関係の説明)に住む。 |
1960年 (昭和35年) | 千葉に一時戻る。 |
1961年 (昭和36年) | 名瀬市有屋の借家に住む。 |
1962年 (昭和37年) | 同市大熊の紬工場で染色工として働く。 |
1967年 (昭和42年) | 紬工場を辞め、絵を描くことに没頭。 |
1970年 (昭和45年) | 再び紬工場で働く。 |
1972年 (昭和47年) | 紬工場を辞め、絵を描く。めまい、腰痛など体調崩す。 |
1976年 (昭和51年) | 軽い脳溢血(のういっけつ)で倒れる。 |
1977年 (昭和52年) |
名瀬市有屋(なぜしありや)の借家で夕食の準備中に倒れ、心不全で死去。享年69歳。栃木市旭町22-27「満福寺」に葬られる。 |
1979年 (昭和54年) | 名瀬市中央公民館で「田中一村画伯遺作展」開催。 |
●田中一村マニアックガイド料金
■1日コースの内容例えば、奄美市名瀬のホテルを午前9時に出発。15時頃までにはホテル着。
コースは奄美市名瀬市内の散策、一村さん終焉の家。奄美市笠利町の某所、田中一村記念美術館。
基本的には9時にホテル出発の約6時間
料金は1日コースで、お一人様20,000円
電話で、問い合わせる。
※スマホ・iPhoneのお客様は、タップすれば繋がります。