基武雄の人生劇場

生まれてから小学生時代まで

奄美大島の名瀬市永田町に住むことになった。

場所は、ダスキン大島の向いに住み、
そこから永田町の川沿いの田畑食料売店の大島紬を織ることになりました。
近所には与論島出身者もいたので、母としては心強かったのでしょう。
そこから僕は、幼稚園や小学2年生までは伊津部小学校に通うようになりました。
母は、そこで知り合った男と再婚しました。
ここから我が家は、不幸の始まりになります。
この男が経済力がなく、その母親は母の貯金を目当てに息子を結婚させた親でした。
この再婚が母の人生にとって大きな負担となり、死亡した平成30年9月21日までイライラしていた。

さて、伊津部小学校から転校することになりました。
永田町に住んでいたのですが、井根町(川元商店近く、そこから名瀬小学校プールの近くに2回目の引っ越しだった)に引っ越すことになったからです。
その時に、頭にきたことがあります。
永田町から名瀬小学校は徒歩で2分もかからない。幼稚園児の足でですよ。
こんな近いところに小学校があるのに、あんな遠い伊津部小学校まで登校していたのかと思うと腹がたって腹がたって・・・。
幼稚園は名瀬小学校の向かい側だが幼稚園生には土地勘や地理はわからない(笑)。

そして、初恋の人と出あい。頭の中は彼女のことで毎日が踊りだしていました。
小学3年生からは名瀬小学校に登校しました。登校時間が1分。
そして、少し遅れること転校生が来ました。
名前を「玉元正男・たまもとまさお」君です。
そうです、のちのフィンガー5の三男です。
可愛い子です。4年生まで一緒でした。
小学5年生の頃の玉元君との記憶がないのです。
せっかく登校時間が短いのに今度は、塩浜町(金久中学校の近く)に引っ越しすることになりました。

毎日、中学生の兄ちゃんや姉ちゃん達の波が凄がった。
場所が変わるとどうしていいのかがわからない。
幸いなことに友達が出来て遊ぶことになった。

そして、小学五年生の頃の運動会が近づいてきて頃の話しですが、伊津部小学校の一年生の同窓生に会いたいと思い、運動会が終わったら会いに行こうと思いました。
ところが、名瀬小学校も伊津部小学校も同日に運動会を開催していることを知り、ガックリ。
なんと中学一年生の時に同じクラスになるのです。
のちに彼女が、実は初恋の人であることを45歳の時に気がつくのでした。

というよりも、二度目の記憶ではありますが、私の魂が向こうから歩いてくる彼女を観ている私に「あの人が初恋の人だよ。」と聞こえた瞬間、小学生のことを思い出した。
縁がなかったんですね。

中学生時代

ともかく、楽しい中学時代だったのは確かです。
実は、小学生6年生の時に、下校途中(矢之脇町の大島石油本社の裏道から塩浜に行く旧道路)に土方姿にしては小奇麗で、腰から手ぬぐいをぶらさげて、なんと、本を読みながら歩いている人と時々すれ違っていたのです。

ある日のこと、一級先輩の海老原万吉(故人)さんが、「学校(金久中学校)へ行こう」というのです。

躊躇したものの「御前も来年からは中学生だから、面白い先生がいるから~・・・」ということで、早速出かけました。

自宅から徒歩で59秒。全国的にも珍しい円形校舎(本当は半円形がふたつ)です。

(この様な校舎が鹿児島市と埼玉県のある高校にあるとのことです)校舎の屋上に上がると、そこは、異様な世界で、空手をやっている人が何人かいて・・・・あまりにも気合の入っている空間でした。

あっっっっっ!!。あの人を皆が先生と呼んでいるうっ。えっ、
先生だったのか・・・・だから、本を読んでいたのだ・・・・・。
(実は、この円形校舎をF先生は、オッパイ校舎と言っていた。
円形ではなく、上から見るとオッパイのような形になっているから)

その日から私は、その古木先生のクラスになるのだと毎日、念仏を唱えていたそうだが、母としては、「そんなこと言ったってできるわけないじゃぁないの・・・・なんて言って無理なことを話し・・・・どうしようか・・・・・・」結構悩んでいたそうです。

そして、いよいよ、中学生になる日がきました。
詰襟が首をしめる学欄に身をまとい、母は、着慣れない着物姿で、徒歩50秒足らずの中学校の校庭まで一緒にでかけていきました。
体育館の西側に掲示されたクラス表から自分の名前を親子で探しました。

「9組・・・・ない。

次は8組・・・・ない。

次は、7組・・・・あった。僕は7組なんだ・・・。先生は、・・・あったっ・・・。古木先生ではないか・・・・・」
嬉しくて、母ちゃんと飛び上がった。
しかし母ちゃんは体重が重いから無理。何度思い出しても、嬉しい。
きっと願いは叶うものだと・・・・・。それからが、僕の人生に大きな影響を与える出来事が始まるのである。
今、思い出しても興奮します。

私の中学校時代は、 「ユニークなキュラクター達」をお読みください。
教育の原点がここにあると思います。抱腹絶倒・・・。間違いなし(笑)。


実は、中学一年生の担任であった古木先生との出会いと、小学6年生から始めた新聞配達が私の人生の基礎を作り上げました。
これは、大人になるに連れて実感していくのです。

南海日日新聞社で新聞配達


小学6年生の夏休みから始めた新聞配達は、とても面白かった。
確か、最初のバイト代が昭和48年の8月で6,500円ほどだったと記憶しています。
今の価値で言うと15,000円以上はあるでしょうか。
このバイド代もさることながら、金のない我が家にとって無料で新聞が読める。
母ちゃんが読んでいたかわからないが、これはいいことだった。

新聞配達と言っても塩浜町の自宅から当時、末広町(現在は駐車場)にあった新聞社までは、誰の自転車で行ったのか記憶にない。
それどころか、小学五年生までは、いや六年生になっても自転車には乗れなかった記憶がある。

新聞だが、当時は、2頁だった。
それを折り、ビニール袋に詰めて自転車で現在の、ホテルウエストコート奄美の向いに自転車を止めて、旧名瀬商港のある法務局(現在は、奄美観光ホテルの裏側から転居した。)方面まで、まず配達をする。

誰の自転車を借りていたか記憶にないから、いつまでも使えない。

その頃、自転車が欲しくて、内山商事に行ったら変速機付で方向指示器が付いている自転車を母ちゃんと後日買いに行った。

ところが、跨って乗ったはいいがフラフラしていたことを記憶している。
1月頃だっただろうか、寒くて暗い朝に方向指示器付の自転車の光は眩しく、嬉しかった。

新聞配達をするまでの私は、起床時間が6時55分頃であった。
それが5時に起床して新聞社へ行くのだから、人間はやってみなければわからないことがある。
可能性というのだろうか。

そんなある日のこと、販売部の部長だった村山邦丸さんから「発送業務の仕事をしないか・・・。」と、声がかかった。

彼は、多分社長さんの従兄弟か親戚で、旧帝国海軍であった。

短気だが、仕事を忠実にする部長であった。

私が危惧したのは、私の後任は誰がするのか。
と聞いたら心配しないでいい。とのことでした。
彼が私をスカウトした理由がある。
当時の発送業務のアルバイトが常に誰かが遅刻をするので、7時までに郵便局に、届けられなかったのだ。

実は、生まれて初めてスカウト料を貰ったのです。
なんと2,000円である。これは、大金ですよ。

昭和47年頃ですから(笑)。

当時の新聞社の給料では考えられない金額で部長の金だろう。
多分間違いない、推測している。

また、近所にあった「めいゆうかく(店名の漢字を忘れました)」から70円のラーメンを出前で食べた。
当時の事務員さんは、「ケチな部長がラーメンをご馳走している。」
と、ビックリしていたが、私には理解できなかった

この頃から、私は、金持ちになることを目標とした。

そして考えたのが勉強する必要はない。という結論だった。

だって毎月、15,000円程のアルバイト代が入り、生活費や学費、自転車代等。
自分が使う金はアルバイト代から支払っていたのだ。
金持ちになるのに勉強の必要性はなかった。

新聞配達を始めてから一年ほどだった中学1年生の途中から発送業務をすることにした。

一番嬉しかったのが、雨のも寒い日も社内の仕事だから楽だった

最大の難関は新聞を早く折ること。先輩たちの折り方を研究して無駄な動きを解析して、
誰よりも早くなった。

次に、帯付の糊付けも難関であった。
後輩は、人差し指で糊をつけている。これを早くする方法を考えた。
分かった。

人差し指の3つある関節全てに糊をつけて一瞬で糊をつけることに成功した。

左手で新聞を取って帯付の中央においた瞬間に右手の人差し指につけた糊で紙を持ち上げて一瞬でつける。
これで、なんと1.5秒。信じられない速さである。
これこそ神技ならぬ紙技である。

現在(平成24年)の南海日日新聞社の社長のお兄さんは、これを見て「神技だなぁ・・・。」
ため息を付いた。

この技を見たことのある人は多分10人もいないのではないだろうか(笑)。

それからというもの正月の新年号の場合には12月からアルバイト。
集金もしていた。ボーナスもあった。だから金持ちだったのです(笑)。

学費から郷里の与論島に帰省する旅費から自転車代からすべてバイト代から出した。
母ちゃんは、男運に恵まれないから家は貧乏。

家計を助けた記憶はないが当時のバイト代として大金である。
だいぶ助かったといっている。

さて、南海日日新聞社が末広町の名瀬小学校向かい角にあるころの話しであるが、イタリア製の活版印刷機からオフセット印刷になり、それから現在の長浜町の社屋に引っ越すまでの一部始終を見てきたのです。

ここには書けないことも見てきました。
会社や人間が成長していく過程の基本も見てきました。
中学生の僕にとって理解不能な世界でしたが、面白いから稼げる世界観がありました。

また、私を最初に認めてくれたのは現在の社長さんのお父さんです。
私の年齢でお父さんと話しをしたことのある人は多分いないでしょう(笑)。

読む度に、心のなかで合掌しています。

ある日の事、部長から意外な話しを聴くことができた。

旧帝国海軍の上司は、山本五十六は昭和18年までしか戦えないと言った。とか。
戦艦大和は徳之島沖には沈んでいない。という信じられない話しだった。
だって小学六年生の修学旅行では徳之島で、
慰霊碑のような塔があり、
展示館のような建物もあったからだ。

これが現実であることは、大人になってから知ることになるが。

部長曰く、戦艦大和には、徳之島で沈没したがソ連軍が引っ張って行ったからあそこにはない。
というのだ。冗談ならともかく中学生でも、その話しは信じられない。

※ここにも、どこにも書けないが戦艦大和の撃沈等の話しは知っている。

ここから私の人生の中で、軍事的な情報や考え方に的確な、ここには書けないことを知る流れというか、歴史ですね。

第二次世界大戦の歴史の裏側を知ることになるとは中学生の私が知る由もないない。

人生とは、必然的に神様の使いである生き方ができるのかが、
問われている自分自身を知るまでのスタート地点であったことは間違いない。

高校受験は不合格

勉強嫌いというよりも金持ちになるには勉強は必要ないから高校受験では当然、不合格。
卒業してから担任の池野先生と大久先生(のちに徳之島の天城町町長)が不合格の通知する為に自宅を訪問された。
担任の池野先生は不合格することを知っていたと思う。

がっくりして帰られる先生達を今でも瞼に焼き付いている。
しかし、私は心のなかで叫んだ。「勉強しなくてもいい。」
これは嬉しいことだった。

そして、南海日日新聞社へ就職する考えでいた。
不合格を部長に報告すると社内は信じられないようだった。
顔つきは頭がいいように見えるから(笑)。
ちなみに家系は教員。
話は終わらない。

部長が社長に報告すると。意外な話しを聞かされたのである。
村山社長からの伝言は、「来年、大島高校に入学して、大学は明治大学文学部に入学して新聞記者になりなさい。
お金は、新聞社から消しゴム一個から出すから。」とのことでした。
しかし、私は勉強という地獄よりも、金持ちになることが目標だったから断りました。

昭和49年3月南海日日新聞社に就職

30歳までの紆余曲折はここから始まる

そして、中学校を卒業と同時に新聞配達をしていた南海日々新聞社に入社。
この新聞社の歴史は50年以上ですが、私のような実績を残した人は、2度と出てこないでしょう。残念なことですが。

本人が言うから間違いない。そして、「カチッ」ときたので退職。

しかし、それから2年後のある日のこと、当時の社長が「このごろ基君がみえないねぇ」と社員に聞くと「退社しました」。「どうして退社したの・・・」「こういう理由で・・・」

次の瞬間、社長が激怒して部課長たちを呼んで、「そんな基を、お前たちは辞めさせたのか・・・」その時には、確か15歳の終わりごろだったと思いますが・・・。

退職した元社員の人が教えてくれました。57歳になってもまだ、この社長さん以外に私を認めてくれる人はいまだに現れず、あの時のことを思い出すだけで苦笑しています。

もっと回りの人たちに認められるように努力いたします。故・村山家國社長さんへ合掌。

ネズミ講は、ホリデイマジック

南海日々新聞社を退職後、ホリディマジックという化粧品のネズミ講(15歳という年齢であれだけのことをやったのは日本の歴史に残る最年少記録だろうと自負しています。)

また、この時に得た経験は、人生のデーターベースとして人生のいい経験をしたと思っていますし、
現在、流行のネットワークビジネスと言って仕事をしているつもりでしょうが、
あれで、成功した人は必ず地獄に落ちて行くことに気が付かないのです。

 さて、その当時のネズミ講は、上へ上がる度に、お金を出さなければならないので。
当時のお金で、私が出した金額が、確か50万円だったと記憶しています。

それから、正式名称は忘れましたが、○○○セミナーと題して、1人、3万円で、2種類のコースがありました。

最初の頃は、沖縄まで行っての研修でしたから、かなりのお金がないとネズミ講なんて出来る時代ではなかったのです。

私がネズミ講ができた資金は、中学1年生の時に育てられていない父親の保険金150万円でした。

私は新聞配達少年でしたので、正確には新聞発送業務少年になり中学1年生で金持ち志望であった。

ホリデイマジックを紹介したおばちゃんは「金儲けができる。」というのです。

その一言で、この話に乗ったのです。
もちろん、金があるあるある、150万円

使った理由が別にある。
中学3年生の頃にヨーロッパ5カ国でレーシングカーの観戦ツアーがモーターファンの広告にありました。

旅費が498,000円。
勉強が出来なくても150万円あれば、498,000万円で足りる計算くらいはできる。
また、カメラも欲しかった。使えないが(笑)。

それは先生にも、母ちゃんにも却下され。
大人になってから母ちゃん曰く「もしも中学生でヨーロッパに行ったら、卒業後は離れていく寂しさから反対した。」
これには納得した(笑)。

母ちゃん失礼、一緒に与論島から宛もなく船に載った母ちゃんは僕が大好きだったんだろうし、頼りにしていたんだね。
ありがとうございます。

平成31年1月14日現在、海外旅行の経験はない。

①化粧品に関する基礎知識的な内容

②これが、ビジネス的要素のある内容で、人の前でプレゼンテーションのようなことをするセミナーでした。

なぜネットワークビジネスで成功しないのか、また、成功してもすぐ失敗をするのかというと、根本的なところが、ネズミ講を基本にしているからなんです。

基本が悪いから、どうあがいても100%失敗するにきまっている。


金銭感覚がおかしくなるのです。
ここが、ネットワークビジネスで成功した場合に、金銭の感覚麻痺をおこすのです。

そして、基本的な仕事ができなくなり、「1円のありがたみがわからない人が成功してたまるか」と、思います。
忠告しても本人たちは聞く耳をもたないのです。

ビジネスは、「口コミ」なのです。

そこから、回りの人たちに信頼されてこそ本当のビジネスになってくるのではないでしょうか。

成功者は、一日でも早く気が付いたら、次の手を打ったほうが得策だと私は考えますが。

この時に使用した書籍が『巨富を築く13の条件』でした。

眠る前に聴く巨富を築く13の条件

巨富を築く13の条件

■成功する方法
人生の棚卸し後、失敗したことの反省よりも、些細なことでも良いから成功体験だけを思い出して行動して下さい。
そのうちに、成功パターンがわかってきます。軌道修正にも役立ちます。

ともかく、成功パターン認識を多くしてください。小さいことに、くよくよするな。

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